筒井康隆100円文庫全セット 筒井 康隆  目次  自殺悲願  君発ちて後  雨乞い小町  日本以外全部沈没  裏小倉(原典付き)  馬は土曜に蒼ざめる  ウィークエンド・シャッフル 【テキスト中の記号について】 《 》:ルビ 例)辿《たど》る [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 自殺悲願 「やあ。しばらくでした」  応接室のドアをあけ、桜井は待っていた田川保一《たがわやすいち》にうなずきかけた。  田川は立ちあがった。「ご無沙汰《ぶさた》を」ていねいに頭を下げた。ていねい過ぎるほどだった。  桜井は田川の向かい側のソファに腰をおろしながら、以前自分が担当していた初老の作家の様子をじろじろと観察した。田川は、数年前にも桜井が見たことのある古い背広を着ていた。袖口《そでぐち》がほころびていた。 「大川恒成《おおかわつねなり》の全集が、よく売れているそうですね」歪んだ笑顔を向けて田川はいった。 「ええ。自殺なさって以後ね」桜井はうなずいた。「もう四十万部出ましたよ」 「それはそれは」田川は真顔に戻り、俯向《うつむ》いた。「それは、よかったですね」 「よその会社のものも、売れているそうですよ。文庫本がね」そういってから桜井は、またつけ加えた。「自殺なさって以後ですがね。むろんそれまでにも、ある程度は売れていたんでしょうが」 「そうですか」溜息《ためいき》をつき、田川はうなずいた。「そうでしょうな」  田川をじっと見つめながら、桜井はとどめを刺すようにいった。「もともとあの人には大衆的な人気がありましたからね」  田川は黙りこんだ。額に皺《しわ》を寄せていた。  桜井は窓の外へ視線を移し、喋《しゃべ》り続けた。「多島《たじま》さんが自殺なさった時も、やはりよく売れましたよ。もっともあの人の大衆的人気は大川さん以上でしたがね」  田川がまた、大きく嘆息した。それきり黙りこんでしまった。  機先を制した桜井は、にっこり笑い、あらたまって田川に訊《たず》ねた。「ところで、今日はまた、どういう」 「ええ、じつは」もじもじしてから、田川は訊ね返した。「どうでしょう。わたしの本はまだ、再版にはなりませんか。第一版が出たのはもう十年以上前だし、部数は三千部だったし、もうそろそろ、在庫もないんじゃないかと思いましてね」 「ははあ。もう十年以上にもなるんですなあ」桜井は低い鼻の上の眼鏡を押しあげて、天井を睨《にら》んだ。「そうか。そうか。最後に出た『酷暑』が十二年ぐらい前になりますな。その前の『食客』が十五年前、最初の『転身』は、なんと、もう十八年前になるわけですなあ。早いものですなあ」 「そうです。三冊とも初版は三千部で、それ以後、出してもらってないのですが」いくぶんいら立たしげに田川はいった。「もう、どこの書店にもありません」 「そりゃあ、そうでしょう。最近は新しい本でも、三月と経たぬうちに店頭から消えちまいますからね」苦笑した。「まして十年以上前じゃあ」 「じつは、子供が学校に入りましてね。寄附や何やかやがあって高くつくんですよ、これが」 「最近は、学校も高くつきますなあ」 「そうなんです」また、田川はもじもじした。「どうでしょうな。あの三冊、再版してもらえんでしょうか。部数は少くて結構ですが」 「田川さんは、最近お書きになっていませんからねえ。どうも読者に馴染《なじみ》が薄くて」桜井は首筋を掻《か》いた。 「眼立たぬ雑誌には、ちょくちょく書いているんですがね」 「ほう。やはり純文学を、ですか」 「ええ。娯楽小説はどうもね。七、八年前でしたか、いちどここの雑誌から頼まれてひとつだけ書いたんですが」彼は自嘲《じちょう》的に笑った。「没にされちまいましたよ」 「田川さんが娯楽小説を書いちゃいけません」桜井はむずかしい顔をしてかぶりを振った。それから姿勢を崩し、また首筋を掻いた。「だけど、それだけに田川さんのものは売れなくてねえ」 「他の出版社へも行ってきましたね。再販をお願いしてきたんですよ」 「ほう」眼鏡の奧の眼をやや丸くし、桜井はじっと田川を見つめた。「で、出すと言いましたか」 「ええ。承文館でね」 「ほう。でも、あそこはたしか、田川さんのものは一冊だけでしょう」 「ええ。短篇集一冊だけです。四年前に出した。最近作集ですがね。どうでしょうな。こちらでも出してもらえませんか。わたしの小説はほとんどこちらで出してもらっているんですからね。だから、担当者であるあなたにこうやってお願いしているんですが。とにかく、再版してもらわないと、どうにもならんのですよ」 「わたしの一存ではねえ」もはや露骨に、桜井は迷惑そうな顔をして見せた。「営業部の意嚮《いこう》もありますし」 「ふうん」それ以上の泣きごとで、作家としての威厳が失われることをおそれ、田川は窓の外をぼんやりと眺《なが》めた。  しばし、気まずい沈黙があった。 「は、ははは、はは、ははははははは」  静かに、田川が笑いはじめた。窓の外を眺めたままだった。  桜井はどきりとした。  振りかえり、桜井に笑顔を向けた田川の眼には、凄《すご》みのある光がたたえられていた。桜井は思わず首をすくめた。さすがは、痩《や》せても枯れても作家だな、と、桜井はそんなことを思い、少し馬鹿にしすぎたかもしれないと思いなおした。 「どうでしょうな、桜井さん」田川が笑いながらいった。「大川さんや多島さんのように、わたしが自殺をすれば、少しは本が売れるとは思いませんか」 「そんな」桜井は乾いた声で無理やり笑って見せた。「冗談をおっしゃらないでください」  田川は笑顔のままだった。だが、眼だけは笑っていなかった。彼の眼には、一種の気ちがいじみた光があった。桜井はまた、ふるえあがった。そんなに窮迫していたのか、と、あらためて驚いた。  田川が見つめ続けているため、桜井はしかたなく答えた。「そりゃあ、まあ、売れるでしょうがね」冗談めかして答えるのに、彼は苦労した。「だけどまあ、売れるといっても程度問題ですよ。とても大川さん、多島さんほどには」 「うん。それはわかっている」田川は真顔に戻ってうなずいた。「そりゃあ、とにかくあっちはノーヘル文学賞だからね」それからまた、嬉《うれ》しげににこにこ笑った。「それにしても、どうだろうね。数万は売れるだろうかねえ」 「そう、そうですな」桜井はちょっとうろたえたが、しばらく眼を閉じてからうんとうなずいた。 「数万は出るでしょう」仮定の上に立っての話だから、少しは無責任になることもできる。「そう。数万なら、出ますよ」 「ふうん。そうかい。数万なら出ますか」田川はまた笑った。「ふふ。ふふふふ。ふふふふふふふふ」 「でもまあ、そんなことはお考えにならないでください」桜井はどぎまぎしながらいった。「ほんとに、冗談じゃありません」 「そうです」田川は真顔でうなずいた。表情には決意の色がみなぎっていた。「冗談じゃありません」  こいつは脅迫だ、と、桜井は思った。承文館の方もこの手で再版させたのではないかと、そうも思った。 「作家というものは、常に自殺を考えています」と、田川はいった。「いちども自殺を考えたことのない作家なんて、作家じゃない。どうですか。わたしが自殺して本が売れるのを見越して、こちらでも、今のうちから再版しておかれたら」 「いやどうも。そう搦手《からめて》からこられたのじゃかないませんなあ」こいつ、本当にやる気だぞと桜井は思った。背すじをひや汗が流れた。「それじゃ一度、営業部の方へ話して見ましょう」 「ほう。そうですか。話してもらえますか」田川は眼を輝かせた。数千部程度の再版なら、出版部次長である桜井の権限内でどうにでもなることを、彼は知っていたのだ。「それはありがたい。わは、わはは、わははははははは」  帰りぎわに田川は、立ちあがった桜井に近づいて彼の眼をじっと覗《のぞ》きこみ、約束を破ったらただはおかぬと言いたげなきびしい口調で、それでもあいかわらずにやにや笑いだけは消さず、こう言った。「それじゃまあ、せっかく再版してくださるのだから、出来あがった本を見てから自殺することにしましょう。うは、うはは、うははははは」  常人の眼ではない、と桜井は思った。  その日桜井は営業部次長の浜岡に、田川の希望を伝え、こうつけ加えた。「じつは、これは絶対に口外しないでほしいんだがね、どうも田川さん、自殺する気らしいんだ」 「本当か」浜岡の眼がぎら、と輝いた。「それが本当なら三冊とも二、三万ずつ再版してもいい。しかしなぜ、それがわかったんだ」 「むろん、本人が自殺すると断言したわけじゃない。だけど、冗談めかして言う裏に決意を感じたね、おれは」 「あんたの勘だけか」 「窮迫もしているよ。それに最近、何も書けなくなっている」 「あの人、奥さんが小学校の先生だろ」 「息子が大学へ行くそうだ」 「寄附がいるってわけか」 「そうだ」 「でも、それだけの根拠じゃなあ」 「あの人の様子、君にも見せてやりゃよかったな。なかば死に憑《つ》かれているというか、なかば正気でないというか」 「凄《すご》かったかね」 「凄かった」 「そうか。最近何も書けなくなっているのか」浜岡は考えこんだ。「承文館も、出すとかいったな」 「うん」 「じゃ、君のいうことを信用して、うちでも出そう。とりあえず一万部ずつ出そう」  二か月ののち、田川保一の古い作品三冊がいっせいに再版され、書店に出た。  さらに一か月のちのある日、田川保一の自宅へ桜井から電話がかかってきた。 「やあ、田川さん。桜井です」 「ん。あ。やあ桜井さん。どうも、どうも」田川は具合悪そうに咳《せき》ばらいをした。「あの節はどうも。お蔭さまで助かりましたよ」 「あ。すると印税の方は、もう」 「ええ。ええ。いただきました」 「そうですか」桜井は咳ばらいをした。 「助かりました」田川が咳ばらいをした。 「ええと。ところでそのう、書店に出てからもう、一か月経つのですが」 「はあはあ」申しわけなさそうな口調で、田川は訊ねた。「で、あの、売れ行きの方はどうでしょうか」桜井に再版を迫った時の決意など、もうどこにも感じられないなさけない声とともに彼は溜息をついた。「売れてないでしょうねえ」 「売れてませんね」なじるように、桜井はいった。 「やっぱり、そうですか」田川は深く吐息をついた。 「困るんですよね」桜井の声が急にはねあがった。「わたしの権限で営業部に、強要に近い形で再版を命じた以上、わたしの責任問題になってくるんです」 「はあ」蚊の鳴くような声で、田川は詫《わ》びた。「申しわけありません」 「各一万部、合計三万部、これ、全然売れないとなると、大変な損害なんですよ」 「よくわかります」 「ですから田川さんも」早く自殺しろとはさすがに言えず、桜井はちょっと絶句し、咳ばらいをした。  田川も、咳ばらいをした。 「ですから田川さんも、その、よくお考えになってください」 「は、はい。よく考えましょう」田川は受話器を耳に押しあてたあまま、深ぶかと頭をさげた。 「早急に、なんとかその、か、か、考えます」 「そうですね。早急にその」咳ばらいをした。「なんとか、ね」  受話器を置いて、田川はまた溜息をついた。桜井はきっと、あの時の田川の演技にだまされた、と思っていることだろう。田川はそう考えた。しかし、と、田川は顔をあげ、宙を睨み据《す》えた。あの時には、おれは本気だったのだ。ほんとに、再版さえしてもらえたら、すぐにも自殺する気だった。いったいなぜ、おれはあの時の決意を失ってしまったのか。印税が入ってきて、生活が少し楽になったためもある。妻や息子が金のことでやかましく言わなくなり、家庭が少し平和になったせいもあろう。しかしいちばん大きな原因は、本が再版され、二、三の書評で再評価され、そのためいくつかの雑誌社から短文の依頼が来たりして、仕事に対する欲が出てきたからだ。そうにきまっている。しかしあの時のおれの決意は、それくらいで簡単に失ってしまう程度の決意だったのだろうか。そうではなかった筈《はず》だ。  強くかぶりを振りながら、田川は立ちあがり、小さな書斎の中をうろうろと歩きまわった。 「おれにはもう、どうせ小説は書けないのだ」自分に言い聞かせるように、彼はそうつぶやいた。 「短い随筆ぐらいなら書けても、どうせ、以前書いていたような小説は、いや、どんな種類の小説であっても、おれにはもう二度と書けない。絶対に書けない。それはすでに三年ほど前からよくわかっていた筈だ。おれは自殺するしかないのだ。おれが自殺したというニュースによっておれに対する興味を人びとに抱かせ、おれの昔の小説をより多くの、新しい読者に読ませるためにも。また、おれという作家をジャーナリズムに再認識させ、おれの名を文壇に、文学史に残すためにも。そして」田川は鴨居《かもい》を見あげた。「そして、桜井との約束を果たすためにもだ」彼は強くうなずいた。「自殺しなきゃいかん。自殺しないと、桜井を裏切ることになる。彼は本当は商売熱心ないい男なのだ。彼をだましたりしてはいかん」呪文《じゅもん》を唱えてでもいるかのように彼はぶつぶつとつぶやき続けた。自分に暗示をかけるためでもあった。  兵児帯《へこおび》をとき、両手で引っぱって強さをためしてから、田川はそれを鴨居にかけた。 「そうとも。おれは義理固い男だ。死ななくては、信義にかかわる。信義。そう。信義の問題だ」彼のひとりごとは、今やうわごとに近かった。黒眼が吊《つ》りあがっていた。  部屋のあちこちにいっぱい積み重ねてある本をひと山積んできて、鴨居からぶら下げた兵児帯の下に置き、田川はその上に立った。和服の前がはだけたが、そんなことにかまってはいられない。タイミングの問題だった。死ななければならないという気持に迫られている時をのがしては、はたして次はいつ、自殺する気になることやら、さっぱりわからないのである。彼は兵児帯で輪を作り、その中に首を突っこんだ。 「オンアボキャーベーロシャ」みなまで唱え終らぬうち、彼は本を蹴った。  本の山が崩れた。田川は鴨居から、だらりとぶらさがった。田川の足が宙を蹴った。足は畳から十数センチも離れていた。田川は白眼を剥《む》いた。屁が出た。鴨居がぎし、ぎしと大きな音を立てて軋《きし》んだ。  ばしっ、という音がして、急に楽になり、田川のからだは一瞬宙に浮き、それから畳の上にひっくり返った。  どどどどどどどどどど。  倒れた田川のからだの上へ、鴨居が落ちてきた。次いで土砂が、驚くべき大量の土砂がばらばらになった天井板とともに落ちてきた。田川の眼の前へ、梁《はり》が折れ口のぎざぎざした面を見せて、どしっ、と落ちてきた。そして最後にけたたましい音を立て、次から次へと屋根瓦《やねがわら》が落ちてきた。田川は土砂にまみれてまっ白になりながらも、頭を手で覆い、背を丸め、瓦の爆撃から身を守ろうとした。瓦の落下は永遠に続くかと思われるほどだった。 「へええ。鴨居にぶら下がっただけで屋根が落ちるとは、よっぽど古い家だったんですなあ」  崩壊した田川の家の一画の前の道路に立ち、警官があきれたように叫んだ。 「は、はい。その、何しろその、明治の頃からの家で、その後、手入れもせず」しどろもどろの田川は、まだ和服の前をはだけたままだった。頭髪も眉毛も埃《ほこり》と土砂でまっ白けである。  近所の連中が道路へ出てきて、田川の家族や警官や、そして田川自身をとりかこみ、あきれたように突っ立っている。 「いったいあなた、まあ、どうして鴨居にぶら下がったりしたんです」  田川の妻が老眼鏡越しに田川を睨みつけ、ヒステリックにそう叫んだ。 「ん。その、何だ、最近ちょっと腹が出てきたもんで、運動しようと思って、その」妻と警官を交互に見ながら、田川はおろおろした声で弁解した。「鴨居で懸垂をした」 「なんだってまあ、そんなくだらないことを」妻は泣き声を出した。「どうするつもりなんですよ。またお金がいるじゃありませんか」  妻の背後に立っている、田川より十センチ以上背の高い彼の息子が、白い眼で田川を睨みつけた。「この、バカ」  中年の警官は、ぶつぶつ言いながらしばらく書斎のあとを歩きまわった末、梁を持ちあげて観察し、大きくうなずいた。「腐っていたんだ」 「なんですあなた。ご近所のかたが見てらっしゃるのに、そんな恰好《かっこう》で」  妻の声に、田川はあわてて、あけっぴろげだった和服の前を重ねあわせた。ぼろぼろのシャツと汚い股引《ももひき》が丸見えだったのだ。 「兵児帯はどうしたんです。兵児帯は」 「う、うん。どこかへ落したらしいな」  妻が泣き顔で近所の連中に詫《わ》びはじめた。「ろくでもない騒ぎを起こしまして、何と申しましてよろしいやら、ほんとにまあ申しわけございません」  おれは運が悪い、そう思いながら田川は、いつまでも崩壊した自分の書斎を茫然《ぼうぜん》と見つめ続けていた。  それから三日後、田川は都心にある高層ホテルの六階にシングルの部屋をとって入った。ホテル代は高いから、家族には安宿にこもって仕事をすると言ってある。うまい具合に書斎が崩れたあとなので、彼がそう言えば家族は信用した。本当は田川はこのホテルで飛び降り自殺を敢行するつもりなのである。  換気のよくきいた快適なホテルの一室で田川は、以前から何度も書き直している遺書にもう一度手を入れ、より文学的にし、そして清書した。封筒に入れた遺書を机の上に置き、田川は立ちあがった。部屋の中を歩きまわりながら、彼はまたぶつぶつとつぶやきはじめた。 「今度は楽に死ねるぞ。うん。今度は楽に死ねる。首吊りなどという、あんな苦しいことは二度とご免だ。飛び降りってのは落ちて行く途中で気を失うらしいからな。なんの苦痛もなしに死ねるのだ。死のう。死のう。この先いくら生きていたって生き恥をさらすばかりだ。作家というものは、小説が書けなくなってから長生きしてはいけない。長生きすればするほど文名は落ちる。早いめに自殺すれば惜しまれて死ぬことになり、それだけ文名もあがるのだ」  窓に近寄り、田川は分厚い金属のサッシュで枠組《わくぐ》みされた重いガラス窓をぐいと押しあげた。静かだった室内に、驚くほどの大きさで地上からの騒音が流れこんできた。田川は地上を見ないようにした。眼を閉じた。室内へ二、三歩あと退った。深呼吸をし、それから咳ばらいをし、また深呼吸をした。  身構えた。  地上から聞こえてくる騒音がますます大きくなった。それは今や、ただごととは思えぬ騒がしさだった。 「おい。何してるんだ。早く逃げろ」  人声に眼をあけると、窓の彼方にひとりの男がいて、大声で田川にそう叫んでいた。男は消防夫の恰好をしていて、梯子《はしご》に登っていた。  田川は窓から地上を見おろした。せまいホテルの庭は野次馬でいっぱいだった。出動してきた消防車、梯子車、パトカーなどの周囲にぎっしり集ってきていて、追われても怒鳴られてもまた集ってきて、その数およそ三百人、いずれも口をあけてホテルを見あげ、わいわい騒いでいる。  田川は驚いて窓から身をのりだし、上の階を見あげた。八階と九階の窓からは猛烈な勢いで噴き出す黒煙に混って赤い炎の舌先がへらへらと躍り出ていた。 「か、火事だ」  腰を抜かしそうになりながら、田川はあわてて窓ぎわから離れた。膝をがくがくさせながら、顫《ふる》える手で荷をまとめた。「た、た、助けてくれ。助けてくれ」鞄に書物をつめこみながら、彼は悲鳴まじりに叫び続けた。「こ、こ、ここで焼け死んではいけない。焼け死んでは事故死ということになってしまう。おれは自殺しなければならないのに」  ドアをあけて廊下に出ると、階段室からもくもくと流れ出てくる黒煙が、すでに田川の数メートル先にまで迫っていた。 「うわ」田川は足をもつれさせながら大あわてで逆の方向に逃げ出した。  やっと別の非常階段を見つけて一階まで駆け下り、正面の庭に出てホテルの細長い建物を見あげると、火はすでに六階まで燃えひろがっていた。六階より上の階がどんな有様かは、さっき田川がいた部屋のあたりの窓から噴き出るもうもうたる煙にさえぎられて、まったくわからない。 「死神に、二度も見はなされた」田川は悄然《しょうぜん》としてそうつぶやいた。  二度も死に損なうと、死ぬ気をなくしてしまう。その後しばらく田川は自殺をあきらめ、といって積極的に仕事をしようというでもなく、桜井からの電話をおそれながら、ぶらぶらと過した。  ホテルで火事に遭ってから一週間めの朝、桜井から、ふたたび電話があった。 「もしもし。桜井です」  田川は首をすくめた。「あ。これはどうも」 「あのねえ、あなたの本がねえ、全然売れないんですよ」桜井の声も悲愴《ひそう》だった。 「よ、よくわかっております」 「あなた、どうしてくれますか」急に桜井の声が重くなった。「あなた以前、早急に考えると言ったでしょう。何を考えてくれましたか」暗く鋭く、凄みのある声だった。 「はあ。それはもう、いろいろと」二度も自殺を試みたことは言わなかった。弁解と思われるにきまっていた。 「責任は感じていますか」 「います。います」 「感じているだけじゃだめなんですよ」 「そうですね」 「責任をとってください」 「とります」 「いつ、とりますか」 「早急に」 「早急にって、いつですか」 「い、い、今です」  追いつめられ、受話器を置き、田川はきょろきょろと家の中を見まわした。午前中なので妻は勤めに、息子は大学へ行っていて、家には彼ひとりである。そこは茶の間だった。書斎が潰《つぶ》れて以来、田川は茶の間で仕事をしているのである。茶の間の隅にはガスの元栓があった。 「もう、手段なんか選んではいられないぞ」立ちあがった。「今、おれは追いつめられた。そうだ。おれは追いつめられているのだ。追いつめられている時こそ、思いきってやってしまうべきだ。死のう。い、い、い、今死のう」  窓の外で、雀がち、ち、ち、ちと鳴いている。遠くの車道の、車の警笛がかすかに響いてくる。眠気をさそう唸《うな》りをあげて、ヘリコプターの爆音が近づき、また遠ざかっていった。  田川は布団の中で念仏を唱え続けた。  いつまで経っても、意識ははっきりしていた。十分経ち、二十分経ち、そして三十分経った。ガスの臭いがまったくしないことに、やっと田川は気がついた。  家の前の道路を、広報車が通っていった。 「町内の皆さま。道路工事のため、本日十時から午後の三時まで、ガスが止まります。皆さま。現在ガスは止まっております」  布団の中で、田川はすすり泣いた。  泣いてばかりはいられなかった。なんとかして死ななければならないのだ。  その夜、友人の家へ行くといって家を出た田川は、町はずれの田圃《たんぼ》の中を走っている鉄道線路の上に立った。いちばん近くの人家の灯さえも遠くに見え、あたりは静かである。汽車に轢《ひ》かれて死のう、と、田川は考えたのである。  枕木《まくらぎ》の上に横たわり、一方のレールに頭をのせ、もう一方のレールに足をのせた。 「こうすれば、死ぬのは確実だ」彼はそうつぶやいた。  夜空には、星が出ていた。田圃の中では蛙が鳴いていた。夜風はうすら寒かった。汽車はなかなかこなかった。だが必ず来る筈だった。時刻表を見てきているし、国鉄がストライキをやっているというニュースも聞いていない。彼は仰向《あおむ》きに横たわったまま汽車を待ち続けた。退屈だったのでオナニーをした。それから立ちあがり、斜面をおりて田圃に向かって小便をし、また引き返してレールに頭と足をのせた。  遠くで汽笛が聞こえた。 「来たぞ。来た」田川は手足を突っぱった。 「き、き、き、来た」歯ががちがちと音を立てた。「死ねる。こ、こ、今度こそ死ねるのだ」  轟音《ごうおん》が近づいてきた。地ひびきが次第にはげしくなった。確実な死を伴った轟音と震動だった。あまりの凄さに、田川はあらぬことをわめき散らした。何かを叫び続けないではいられなかった。 「オ、オンアボキャーのナムアミダ。悪《あ》しきを払《はろ》うて助けたまえ。信じる者は救われる。人は枕木、死ねば寿司」  頭をレールにのせていられないほどの激しい震動だった。地震にも劣らぬ震動に加えて、耳を聾するばかりの轟音が田川の上にのしかかってきた。 「わああああ」  もう我慢できなかった。田川は蛙飛びにレールからとび離れ、斜面をころがった。その彼の頭の上を、轟ごうと音を立てて列車が通過しはじめた。 「死ねない」田川は土手の草をひっこ抜き、あたりに撒《ま》きちらしながら泣きわめいた。  さんざ泣いてから、彼は立ちあがった。「汽車がきても、絶対に逃げられないようなところで寝ころがっていればいいんだ」うなずいた。「そうだ。鉄橋の上か、トンネルの中がいい。鉄橋なら、北へ二キロ歩けば磯馴《いそなれ》川の鉄橋がある」レールの上を歩きかけ、田川はすぐに立ちどまった。 「だめだ。鉄橋の上だと、恐怖のあまり川へ飛びこんでしまうだろう。そして具合の悪いことに、おれは泳ぎが達者だ。冬なら心臓麻痺《まひ》で死ねるだろうが、今は初夏だ」かぶりを振り、彼はレール上を逆方向に歩き出した。「絹田《きぬた》山のトンネルへ行こう。あっちは南へ一キロだ。あっちの方が近い。あのトンネルの中へ何百メートルか入って、レールに寝ていればいい。汽車が来たってトンネルの中だ。どこへも逃げられない筈だ」歩き続けた。  夜風が次第に冷たくなってきた。さっきの轟音と震動の恐怖のためと、オナニーをしたためにかいた汗が乾き、背中がぞくぞくした。彼はくしゃみをした。 「風邪をひいたって、かまうものか」と、また彼はひとりごちた。「どうせ死ぬんだ」  ぽっかりと黒い口を開いたトンネルの中へ、田川は入っていった。トンネルの壁のところどころには常夜燈がついていて、壁の苔《こけ》を照らしていた。水滴が軽い音を立てていた。田川は歩き続けた。トンネルに入ってから、すでに数百メートル歩いていた。  前方で、汽笛が聞こえた。田川の足がすくんだ。 「ひゃっ。もう、来た」  べったりと、彼は線路の中央へ腰を落した。それからがたがた顫えながら、レールの上へゆっくりと頭をのせ、足をのせた。  汽車が近づいてきた。トンネルの中なので、その轟音の激しさはさっきの比ではなく、とてもこの世のものとは思えなかった。震動がはじまった。 「わあ。助けてくれ」  矢も盾もたまらず田川はとび起きた。レールの上を、トンネルの入口に向かって走りはじめた。下駄《げた》をとばした。何度もつんのめった。轟ごうと咆《ほ》えたけり、汽車は背後に迫った。彼方に、トンネルの入口が白く小さく光っていた。息が切れた。とても逃げ切れないとわかっていながら、田川は走らずにいられなかった。心臓が口からとび出しそうになってきた。  枕木につまづき、田川は俯伏《うつぶ》せに倒れた。「わっ」彼は背を丸め、両手で頭をかかえこんだ。 「もう駄目だ」  ごととん、ごととんと巨大な車輪の音を響かせて、列車は隣りのレールの上を通り過ぎていった。田川は逆方向のレール上を走っていたのだ。 「また死ねなかった」田川は半狂乱になり、トンネルの中で泣き叫んだ。  次の日から田川は四十度に近い熱を出し、寝込んでしまった。そしてのべつ譫《うわ》ごとを口走り続けた。「いかん。死んじゃいかん。病気などで死んじまったら大変だ。本が売れなくなる。今死ぬわけにはいかん」  死んじゃいかん、死んじゃいかんと言い続けているうちに二、三日経ち、少し熱がひいてどうにか正気も戻ってきた。勤めを休んで彼の看病をしていた妻も、もう大丈夫だろうというので出かけていって、家に田川がひとり残されたその日の朝、週刊誌の記者から電話がかかってきた。 「じつは来週号で、若者の自殺についてという特集をやります。そこで先生のご意見をうかがいたいのですが、先生は今流行している青年の自殺をどうお考えでしょうか」 「わたしには、自殺した若者たちについて意見を述べる資格などありません」 「それはどうしてでしょうか」 「無事に自殺できた若者たちを羨《うらや》ましく思い、また、その勇気に感心しているからです。それにわたし自身、何度も自殺しそこなっているからです」 「ははあ。それは先生のお若い頃の」 「いやいや。つい最近です。今月になってからの話です」 「えっ。それをもっと詳しくお話しいただけませんか」  死ねなかった腹立ちでやけのやんぱち、まだ少し熱に浮かされていた田川は、先日来の自殺未遂の顛末《てんまつ》を、前後もわきまえず洗いざらい喋ってしまった。もちろん少しは常識も残っているから、桜井との約束の一件だけは彼に迷惑がかかってはと思い、洩《も》らさなかった。  じっと笑いをこらえて聞いていた記者が、田川が喋り終るなり叫ぶようにいった。「これは単なるコメントとして扱うには勿体《もったい》ない。これからちょっとそちらへうかがいます」すぐさまカメラマン同行で取材にやってきた。  田川の自殺悲願のいきさつが面白おかしく週刊誌で四ページの記事にされると、たちまち囂《ごう》ごうたる反響があり、嘘っぱちだ売名行為だ作家の風上にも置けぬやつといきまく文芸評論家、小説が書けなくなった作家の悲劇だ笑ってはいかん笑ってはいかんとマスコミの面白がり様をたしなめる老作家、中には自殺しようとしてなかなか死ねなかったという多くの例を持ち出してその心理を分析してみせる心理学者などもいて、たちまち田川は時の人になってしまった。  さっそく桜井から電話がかかってきた。 「やあ田川先生。どうもどうもどもども」 「はあ。これは桜井さん。どうも」 「さすがは作家だ。先生にあんなユーモアのセンスがあるとは思いませんでしたよ」 「え。ユーモア」 「そうですとも。面白い話でみごとにマスコミを踊らせたじゃありませんか」 「いや。あれはみんな本当の」 「いいんです。いいんです。わたしにはわかっているんですから。心得ています。どうぞご心配なく」 「あのう、あなたとの約束の件だが」 「ありがとうございます。ああいう形で果たしていただけるとは思ってもいませんでした。お蔭さまで本は売れています」 「え。え。本が売れているんですか」 「はい、はい。いずれは増刷になると思いますが、今日はとりあえずお礼の電話を」  ぺらぺらと喋り続ける電話の中の桜井の声をうわの空で聞きながら、田川の気持は複雑だった。たしかに田川は、マスコミの力にたよって読者を獲得しようとした。そのために自殺しようとしたのである。ところが今は、やはりマスコミの力によって、自殺しないままに読者を獲得しつつある。  予想と大きく狂ったところは、世間に悲劇の作家というイメージをあたえず、喜劇の作家というイメージをあたえてしまったことだ。世間の連中は、この馬鹿はいったいどんな変な小説を書いているのだろうといった興味で本を買っているにちがいない。これは田川の本意ではなかった。作家である以上は尊敬されたい。だが笑われていたのでは尊敬はされない。本を読んだぐらいでは認識をあらためてはくれないだろう。  まあ、死ななくてすんだのだから、それくらいは我慢しよう、と、やがて田川はそう思いはじめた。すっかり自殺がいやになっていたからである。しかも約束は果たし、本は売れ続けているのだ。そうだ。これで満足なのだ。  そして数か月後、田川の小説が著者自身ほど面白いものではないことがわかってきたためか本の売れ行きが急に下り坂になってきたある日、道を歩いていた田川は、中学校の校庭からとんできた野球のボールが頭にあたり、ひっくり返って車道へころがり出たところを軽四輪にはねられてあっさり死んでしまった。 君発ちて後   1  夫の築地昭太郎が蒸発してから一週間たった。 「もう、待てないわ」その朝、眼がさめるなり稀夢子はそう思った。昨夜から生理が始まっていた。部屋いっぱいに血の匂いが充満していて、瞬間湯沸器に点火するのがためらわれた。マッチをこすると部屋が大爆発するのではないかと思えた。  顔を洗い、化粧をし、身支度を整えて部屋を出ようとした時、夫の友人の福原がやってきた。 「やあ。築地君、まだ帰りませんか」暗い廊下に立ち、彼は冷やかすような眼つきで稀夢子の顔をじろじろと眺《なが》め、そう訊ねた。  もっとも、この男は常に冷やかすような眼つきをしていた。彼が本気で心配してくれているのかどうか、稀夢子にはわからなかった。おそらく、それほど心配していないのではないかと思えた。夫の蒸発以後、男の心理はますますわからなくなっていた。 「まだですわ」と、彼女はいった。「どうぞ、お入りになって」 「そうですか」うなずいた。「では、ちょっと」部屋に入りかけ、少し考えた。「でも、いいのかな」 「いいんですのよ。どうぞ」  入ったところが約十二畳分の洋間になっている。この木造アパートの中身は、外観よりも数倍よかった。  ソファに腰をおろしながら、福原は鼻をひくひくさせた。稀夢子はうろたえて、窓をぜんぶ開けた。 「どこかへ、お出かけになるところだったんですか」福原は彼女の動きを首で追いながら訊ねた。 「素人探偵がいよいよ行動開始ですわ。昨日までは、留守中に主人が戻ってくるような気がして、どこへも出られなかったんです」 「警察へはやはり、届けないおつもりですか」 「そのつもりですの。交通巡査が嫌いだから、刑事はもっと嫌いに違いありませんわ」  稀夢子は福原にコーヒーを出し、彼の向かいの低い肘掛椅子《ひじかけいす》に腰をおろした。膝上5センチのスカートをはいていたので、小麦色が自慢の太股がだいぶ出た。一瞬彼女の膝に眼を吸い寄せられた福原は、非人間的な努力を試み、ばりばりと大きな音をたててその視線をひっぺがした。 「ほんとに、ご心配をおかけしてしまって、福原さんには」 「奥さんも、たいへんですねえ」彼はそういって足を組んだ。  股間の膨らみを隠すためであろうと稀夢子には思えた。そして馬の性器を連想した。 「で、今日はどちらへ」 「主人の会社へ行って見ようかと思いますの。お給料の残りも下さるそうですし」 「そうだ。貯金はあるんですか。失礼なことをうかがうようですが」  この質問はあきらかに興味本位のものだったが、稀夢子は答えた。「ええ。当分は遊んで暮らせるほど」 「へえ」福原は意外そうだった。独身の自分でさえ充分遊べるような給料も貰っていないのに、大学の同期生でしかも妻帯者の築地がそんなに多額の貯金をしているということが、どうしても腑に落ちないらしかった。 「ところで」と、彼は稀夢子の顔を見ながらいった。「ぼくにも何か、お手伝いできることがあれば」 「もう、充分助けていただきましたわ」 「あなたがお気の毒だ」鼻息荒く溜息をついた。「見ていられないんですよ」 「うれしいわ。気にかけてくださって」 「築地の奴、しかたのない奴だ」彼はぐいとコーヒーを飲み乾し、立ちあがって窓際に寄り、外を見おろした。 「築地を責めないでくださいな」と、稀夢子はいった。婦人雑誌の蒸発特集に出ていたせりふを、彼女はすらすらと喋《しゃべ》り出した。「あの人には夢があったんです。その夢を実現するためにはきっと、私がいてはいけなかったんですわ。私を愛してくれていたからこそ、冒険することができなかったんですわ。だから蒸発したんです。破滅に、私をまきこみたくなかったのね、きっと。あの人は、無責任に私をつれたままで新しい冒険をやり出すような人じゃなかったんです」 「蒸発した男に、責任感があったといえるでしょうか」 「責任感が強すぎたんだと思います」 「あなたはいいかただ」福原は稀夢子の傍にやってきて、肘掛けに尻をのせ、彼女の肩に片手を置いた。  ポマードだけはいいものをつけているのね——と、稀夢子は思った。ジョッキー・クラブの麝香《じゃこう》だった。  福原は次に、手を両肩にかけた。指さきが下に、そろそろとおりてきた。 「あなたの力になりたい」と、彼はいった。「力になります」 「心強いわ。とてもうれしいわ」稀夢子は立ちあがった。  福原は力になります、力になりますといいながら台所まで追いかけてきた。 「もう、出かけます」と、稀夢子はいった。 「そうですか」福原は肩を落した。「では、用のある時はいつでも、ぼくの会社へ電話してください」 「ご親切に」  福原が帰ってから十分後に稀夢子もアパートを出た。アパートは山手線の駅に通じる商店街のはずれにあった。稀夢子は商店街をゆっくりと歩いた。八百屋の若者が火炎放射器のような視線を彼女の腰のあたりに向けているのがわかった。彼女は、自分のような美貌と均整のとれたスタイルは、あんな下層階級の青年には高嶺《たかね》の花に違いないと思った。いつも彼から視線を浴びせかけられた時はそう思う習慣がついていたのだが、今日は特にそう感じた。  国電に乗るのは久しぶりだった。車内は空いていて、腰をおろすことができた。せっかく腰をおろすことができたのに、若い男が車内に少なく、自慢の膝のエキジビションができなくて残念だった。いったいどうしたのと稀夢子は自分に訊ねた——あなた、色情狂になったの。  夫とは二日に一度の性交渉があった。結婚して六年め、稀夢子は三十歳だった。二十六歳ぐらいには見える筈《はず》だと稀夢子は思っていた。蒸発前夜も、夫は稀夢子を狭い風呂場で抱いた。もっとも週刊誌の統計によると、たいていの男は蒸発前夜に妻を抱いているということだったが。  わたしが肉体的に夫に満足させていなかったということはあり得ない——稀夢子は確信をもってそう思った。だしぬけに夫が蒸発してから、思いがけなく七日もぶっつづけにひとりで寝たため、からだの調子はあきらかに狂っていた。おとといの晩などは膣《ちつ》に蛆《うじ》がわいたにちがいないと思ってとび起きた。すべての事物が稀夢子の中であっというまにセックスに関係づけられるようになった。色情的生活型という性格類型があって、それは女性に多く、その生活行動の原理はセックスにもとづいているという話を彼女はどこかで読んだおぼえがあった。だがそれは自分にはあてはまらない筈だと稀夢子は思った。今まではあきらかに、そうではなかったのだから——。  有楽町で国電を降り、日比谷に向かった。夫は協和機器工業の本社に勤めていて、それは日比谷にある十三階建てオフィス・ビルの三、四、五階に事務所を持っていた。ビルの一階にある喫茶店に入り、稀夢子は電話で夫の同僚の佐川を呼び出した。店内は外光をとり入れて明るく、低いテーブルにはマーブルが使ってあり、コーヒーは薄くて音楽の方がおいしかった。音楽はヴォーカルばかりだった。流行歌手になってさえいれば——と、稀夢子は思った。ディーン・マーチンが「エヴリボディ・ラブサムボディ・サムタイムズ」を歌い終り、次にシナトラ親娘がデュエットで歌い出した。これは近親相姦の歌だわと思っている時、佐川が角縁眼鏡を光らせて入ってきた。 「やあ。このたびはどうも、たいへんなことで。ご心配のことでしょう」  彼は事務的にそういって稀夢子の向かいに腰をおろし、色白の端正な顔で事務的にコーヒーを注文した。事務的な言動を自分で楽しんでいるようだった。  奥さんと愛しあう時も事務的にするのかしら——と、稀夢子は思った——いいえ、そうじゃないわ、こういう人に限ってきっと、ベッドの上ではだらしなくなるんだわ、口をあんぐりと開いて咽喉をぜいぜい鳴らし、咽喉仏《のどぼとけ》をぎくぎく動かし、痩せた肋骨《ろっこつ》をがくがくと痙攣《けいれん》させ、しゃくりあげむせ返り白眼を剥きひきつけを起し、よだれを垂れ流しながら角縁眼鏡を鼻の下までずり落して……。 「ちょっとオーバーかしら」 「何がオーバーです」 「何んでもありませんのよ」稀夢子はあわててコーヒーを飲み乾した。  この佐川は夫と同じ年に入社したのだが、すでに係長待遇になっていた。社内では切れ者と噂されていると、夫の口から聞いたことがあった。 「あなたが会社で、主人をご覧になった最後のかただとうかがったものですから」 「そうなんです」佐川はうなずいて喋り出した。「あの日の午後三時頃でした。築地君は工場へ行く用があって会社を出たんです」彼は窓越しに、向かいの歩道を指した。「ここからも見えますが、あそこに都バスの停留所があるでしょう」 「ええ」 「彼はあそこに立って、バスを待っていました。あのバスに乗ると、工場まで乗り換えなしに行けるんです。ぼくの席は三階の窓ぎわですから、彼がバスを待っている姿が見えました。彼は禿頭の中年のサラリーマンらしい紳士といっしょに、並んでバスを待っていました。やがてバスがやってきて止り、すぐ発車しました。彼の姿は消えていました。当然彼は、その禿頭の紳士といっしょに、バスに乗ったものと思われます。でも彼は、工場にはあらわれなかったそうです」 「禿頭の紳士というのは、会社のかたですか」 「いや。会社の人じゃありません。知らない人です。停留所で並んで立っている様子を見たところでは、お互いに知らない者同士としか見えませんでした」彼はあわててつけ加えた。「しかしこれはぼくひとりの観察です。断言はできません」  話しながらも、佐川は稀夢子を、まるで無機物を眺めるような眼つきで見続けていた。事務的な会話しか、したくないらしかった。この男は、主人とは仲が良くなかったに違いない——稀夢子はそう思った——空想家と事務屋さん、話の合うわけがないではないか。きっとこの男は主人を軽蔑していたのだろう——そう思うと、急に稀夢子はこの男が憎くなった。さっきの空想で、もっともっとおかしな恰好をさせてやればよかったと後悔した。  彼の返事はわかっていたが、稀夢子はとにかく訊ねてみた。「心あたりがおありになります」 「何の心あたりですか」 「主人が失踪した理由ですわ」 「わかりません」わかりたくもありませんとつけ加えたいような口ぶりだった。「彼は仕事に忠実でした。責任感も持っていました。人間関係も、うまくいっていた筈です。他の会社よりはサラリーもよく、来年は係長になれる筈でした。不満はなかったと思います。少なくとも仕事の上では」意味ありげに、彼はそこで言葉を切った。  彼の眼はこう語っていた——築地君がもし不満を持っていたとすれば、それはあなた以外には考えられません。奥さん、あなたが原因なのでしょう。あなたが彼を困らせたのでしょう。ぼくと比べて彼の出世が遅いのでヒステリーを起し、夜ごと愚痴をこぼして彼を悩ませたのでしょう。収入が少ないと責めたてたのでしょう。夜ごと彼にサービスを要求し、昼間の仕事でくたくたに疲れ切った彼の肉体を飽くことなく貪婪《どんらん》にむさぼったのでしょう。そうでしょう……。 「そうじゃないわ」と、稀夢子は叫んだ。「いつも求めてくるのは彼の方からだったし……」稀夢子はあわてて言葉を切った。  だいぶ大きな声を出したらしく、店中の客があきれて彼女を見ていた。 「何を求めたのです」と、佐川がびっくりして訊ねた。角縁眼鏡の中で、眼球がまん丸になっていた。 「彼は、家庭に不満を持っていたとも思えないんです」稀夢子は蚊の鳴くような声でそういった。 「なるほど。いい家庭、立派な職業——だけど、それがかえって築地君には重荷だったのかも知れませんね」 「あら。そんなことって、あるでしょうか。そんなわがままな……」 「男は本来、わがままなものなのです」と、佐川は大社会評論家のような口調でいった。「家庭と職場を守って無事に一生を送る——それもひとつの人生でしょう。でも、無事に生きてきたというだけでは生きた値打ちがない——そう思う人間も中にはいるのです。男はみな多かれ少なかれそう思っています」 「あら。そうですか」稀夢子はもうどうでもよくなってきて、投げやりにそういった。  夫の行方を探すという目的でここへ来たのだが、いざとなると何もかも面倒だった。男には論理がある、だが女には思考感情しかない——つまり女は感情の中で思考する、だから女の探偵なんてナンセンスだわ——そう思った。面倒になった時はいつも、彼女は自分が女であることを思い出すようにしていた。  ——こういう場合、女に出来ることは、ただ夫の帰りを待ち続けることだけなのだろうか。待って、待って、待って、それでもあなたが帰ってこなければ、うずいているこの肉体、わたしいったいどうすればいいの、あきらめきれない、どうにもならない、あきらめきれない、どうにもならない……。 「……あきらめきれない。どうにもならない。あきらめきれない」いつのまにか首を左右に振ってリズムをとり、大きな声でそう歌っている自分に気がつき、稀夢子ははっとわれに帰った。  佐川があきれて見ていた。 「おいそがしいところを」と、稀夢子はあわてていった。「お呼び立てしまして、どうも」 「いや。いいんですよ」佐川は立ちあがり、伝票をつかんだ。 「あ。それはわたしが」 「いえ。ぼくが」 「いえ。わたしが」 「いえ。ぼくが」 「いえ。わたしが。あの、わたしまだ、しばらくここに居りますので」 「あ。そうですか。それじゃあ」佐川は伝票を置き、そそくさと出ていった。  稀夢子はあらためて注文したコーヒーをゆっくりと飲みながら、しばらくぼんやりと考えこんでいたが、やがてステレオが男の声で帰りたくないのと歌い出したので腹を立てて店を出た。  ビルの四階の経理課へ行って夫の給料を貰った。三万九千円あった。家を買うつもりだった貯金が八十二万五千円あるから合計八十六万四千円になったわけである。夫は蒸発した時金を数千円しか持っていなかった。稀夢子の読んだ週刊誌の統計では、蒸発した人間の平均所持金は三万円足らずだということだった。  さて、これからどうしたものか——ビルを出てから、稀夢子はちょっと考えた。都バスの車庫へ行き、夫の乗ったバスの車掌を探し出していろいろ訊いてみようかとも思ったが、相手の迷惑そうな顔を思い浮かべて、たちまちその気をなくしてしまった。そんなこと、どうせ下層階級の女車掌のことだもの、憶えていないにきまっているわ——。  ぼんやりと向かいの歩道のバス停を眺めているうち、稀夢子は、夫がバスに乗らなかったのではないかと思いはじめ、それは次第に確信に近くなってきた。バス停のまうしろには、向かい側のビルの入口のガラス・ドアがあった。バスが停車している時に、ガラス・ドアを押して、その十数階建てのビルの中へ入っていったということも考えられる——いいえ、そうに違いないわ、だから、こちら側から見ていた佐川さんには、夫がバスに乗ったように思えたんだわ。車道を横断し、稀夢子は向かい側のビルに入って行こうとした。だが、ガラス・ドアの前でまた面倒臭くなった。  夫が帰ってきてほしいという願望と、探偵をやりたいという衝動とは、ぜんぜん別のものなのだろう——そう思い、彼女は日比谷の映画街へ向かった。ベッド・シーンのありそうな映画は避け、西部劇を見た。マカロニ・ウエスタンで、あまりの残虐シーンの続出に、稀夢子は貧血を起しそうになった。それでも画面に血の色があふれ出すと、眼を見ひらいて眺め続けずにはいられなかった。    2  アパートに戻り、タンポンを入れ替えている時に、やあどうもどうもといってまた福原がやってきた。  ガウンに着換えた稀夢子をじろじろ眺めながら、彼は冷やかすような調子でいった。「どうです。収穫はありましたか」 「ありませんでした」中へ入りたそうにしているので、稀夢子はドアを大きく開いた。「お入りください」 「じゃ、お邪魔します」彼はためらわずに部屋へあがりこんできた。  稀夢子は台所へ入った。コーヒーを沸かそうと思ったが、もうなくなってしまっていた。彼女は細身の刺身庖丁をとりあげ、鋭い切先を螢光灯に近づけてじっと眺めた。もし、また福原が何かしようとしたら、これで彼の咽喉をざっくり開いてやろうかしらと考えた。でも、お魚を半身におろすように、人間の咽喉が半身におりるか知らん、男の人の咽喉には咽喉仏というものが出ているけど、あれは開くことができるのかしらと思った。 「どうぞお構いなく」と、福原が洋間から声をかけた。「すぐ帰りますから」 「でも」  彼女は盆の上にコップふたつと刺身庖丁をのせ、洋間に戻った。福原は肘掛椅子に腰かけていた。稀夢子をソファにすわらせる気でいるらしく思えた。そして頃合いを見はからい、わたしを押し倒す気なのだわ——と、稀夢子は思った——気をつけなくちゃ……。  ソファに掛けた稀夢子が盆を中央の低いテーブルに置くと、福原は咽喉がかわいていたらしく、さっそくコップをとりあげてがぶりとひと口飲んだ。それから飲んだものをゲロゲロとコップに戻し、おどろいて稀夢子を眺めた。 「奥さん。これはコーラじゃないですよ」眼をしばたたいた。「こ、これは醤油《しょうゆ》です」 「すみません」稀夢子は身をくねらせた。「ちょうどコーラがなかったものですから」  福原は苦笑した。「でも、醤油は飲めませんよ」 「そうですか」 「奥さんが、こんな冗談をお好きとは思いませんでしたな」彼はわざとらしく明るい声を出していった。「それともぼくがお嫌いなんですか」 「まあ」稀夢子も軽く笑った。「そんなこと、ありませんわ」 「奥さん」福原が、だしぬけに真顔に戻った。「今日は少し酔っているんですが、勘弁してください」 「まあ。いいですわね。酔ってらっしゃるなんてうらやましいこと。わたし酔っぱらいは好きですのよ」 「お話があるんです」彼は真顔を崩さなかった。「もう、おわかりになるだろうと思いますが……。酔っぱらってお話ししなけりゃならないようなことなんですから……」 「わかりませんわ」稀夢子は刺身庖丁にちらと眼を走らせてから訊ね返した。「何ですの」  福原は稀夢子のガウンを着た胸のあたりに眼を据え、喋り出した。「ぼくはずっと、築地がうらやましかった。あなたのような美しい方を妻にして、あなたに愛され、幸福で……。しまいにぼくは、そんな彼が憎くてたまらなくなってきたんです」 「まあ。では主人は蒸発したのではなく、実はあなたに殺された……」 「冗談じゃない。早合点しないでください」彼は押しとどめるように両手を前へつき出し、腰を浮かした。「築地君を殺せばあなたが悲しむ。ぼくがあなたを不幸にするようなことを、する筈はないでしょう」  稀夢子は溜息をついた。「わたしたちは幸福でしたわ。でもあの人には、家庭の幸福などという現実的なことはどうでもよかったんです。あの人はあまりに空想的、わたしはあまりに現実的——だからうまく行かなかったのかもしれませんわね」 「それは違う。男は昔から空想的です。女は昔から現実的です。だから世の中うまく行ってるんです。男の夢を女が現実に引き戻す、だから世の中うまく行ってるんです。一方、男が空想するからこそ新しい発見や発明があり、だから世の中進歩するんです」 「でもわたし、あの人の夢を現実に引き戻したことなんか、いちどもありませんでしたわ。あの人が冒険しようとする時に、もし失敗したらどうするつもりなんて訊ねたこと、一度もなかったわ。あの人に、やりたいようにやってほしかったわ。それでもあの人は行ってしまった。なぜなの。あなたの空想を、わたしが一度でも笑ったことがあって。なかったわよ。ああ。それなのになぜあなたは行ってしまったの。なぜ帰ってこないの。なぜなのよ。どうしてなのよ」いつの間にか稀夢子は福原の顔に眼を据えて難詰していた。「おっしゃって頂戴」  福原はびっくりして、また中腰になった。「そんなこと、ぼくは知りませんよ」 「あら。ごめんなさい」 「家庭の幸福が好きでなかったとすると、築地君はよほど旧式な人間だったんですな」 「まあ。どうして築地が旧式なんです」 「だってそうでしょう。最近の亭主族はみんなマイホーム主義者だ。仕事よりも家庭だ。ぼくだってそうです。ぼくは必ず幸福な家庭を築きあげて見せますよ奥さん」 「でもさっき、あなたおっしゃったじゃないですの。男の空想が世の中を進歩させるんだって」 「それはだから、昔の話なんです」彼は立ちあがり、窓ぎわに寄ってガラス越しに外を眺め、演説をぶち始めた。「ごらんなさい奥さんこの大都会。マンモス・アパートにマンモス・ビル。トポロジー的なハイウェイ。空には人工衛星。人類文明は今や爛熟状態です。こんな世の中で、男の夢を生かせる場所がどこにありますか。男ひとりで、いったいどんなことができるというのです。何か仕事ができますか。出来ませんできません。仕事は組織がやるのです」  稀夢子は議論に退屈してきた。これならいっそのこと、彼が言い寄ってきた方がまだましだと思った。 「今は組織の時代です。個人は仕事をやらなくていいのです。家庭サービスさえやっていりゃいいんです。仕事なんか、だんだんなくなって行きます。その証拠に、週五日制がもうすぐ週四日制になります。そのうち仕事は機械がやるようになります。家庭に幸福を見出せないような人間は現代人じゃありません。片輪です。現代の人間は家庭の幸福を守り、子供を生んでいればいいのです」彼は稀夢子をふり返った。「ぼくは奥さんと幸福な家庭を築きたい。奥さん。お願いです。ぼくの子供を身籠《みごも》ってください」彼は声をうわずらせながら稀夢子の傍にやってきた。 「あら。わたしは夫のある身です」 「そうですか。しかしかまいません。ぼくと結婚してください」彼はソファのうしろに立ち、稀夢子の胸を背後から抱いた。「ああ。以前から、こういう具合にしてあなたを抱きしめたかった」  稀夢子は身を固くしたままで冷たくいった。「あら。そうですの。で、どんな感じがなさる」 「冷蔵庫を抱いている感じです」 「そうでしょうね。名前がキムコだもの」 「あなたは冷たい方だ。どうしてぼくの気持をわかってくださらないのです」  稀夢子は刺身庖丁の方へ手をのばそうとした。その時、福原が彼女の首すじにキスをした。  稀夢子の肉体は首すじが回路の接点になっていた。彼女はたちまち感電し、あっと叫んでとびあがった。そのはずみに福原はソファの凭《もた》れを越えてクッションの上に倒れ、さらに一回転して床に落ちる途中、腰骨をテーブルの隅にぶつけた。 「いててててててて」 「いけませんわ。およしになって」稀夢子は立ちあがり、福原の恰好《かっこう》のおかしさにくすくす笑いながらそういった。  福原も、痛さに顔をしかめながら笑った。笑いながらいった。「ああ奥さん。あなたはぼくの心臓を櫟弄《れきろう》する」彼はおどけついでに床の上で身もだえた。「ぼくは苦しい。ぼくはあなたを抱きしめたい」急に真剣になり、彼は立ちあがって稀夢子に迫ってきた。「ぼくは、ほ、ほ、本気ですよ奥さん」 「お帰りになって」稀夢子は少しきびしい声できっぱりと行った。「もう、いらっしゃらないで」  福原はあわてて、また喜劇タレントに早がわりし、大袈裟に嘆息した。「ああ。あなたのハートの貞操帯には、どんな鍵が合うんですか」  稀夢子は笑いながらドアを開けた。「主人の持っている鍵だけです」 「また来てもいいでしょう」彼はドアを出てからふり返り、懇願するような眼でいった。「ねえ。いいでしょう」 「さようなら」  稀夢子はドアを閉めた。鍵をかけ、寝室に戻り、ベッドに横たわってオナニーを二回した。それからガス風呂に火をつけ、またベッドに戻って裸のまま湯が沸くのを待った。少しうとうととして、夢を見た。すっ裸で公衆便所へ入っている夢だった。しかもその公衆便所の壁はぜんぶ透明のプラスチックだった。道を行く男たちがにやにや笑い、ふり返りながら通り過ぎて行く。彼女は恥ずかしさに、しゃがんだまま両手で顔を覆った。  天井裏で物音がしたため、稀夢子はおどろいて眼を醒《さま》した。夫が天井裏にいるのだろうか——そう思った。蒸発した夫たちが、実はそれぞれの家の天井裏にひそんでいる——稀夢子にはそれが、いかにもありそうなことのように思えた——だから、なかなか見つからなかったんだわ。  天井裏へは、押入れの天井板をはねあげれば入って行ける筈だった。ちょうどすっ裸だから、裸のまま入って行こうと彼女は思った。——ほこりやネズミの糞でまっ黒に汚れたとしても、そのまますぐ風呂へとび込めばいいのだから……。  懐中電燈片手に押入れの上段にあがって立ちあがり、隅の天井板を一枚押しあげ、ごそごそと天井裏へ這いあがった稀夢子は、ライトを点けて四方を照らした。天井裏は広かった。この木造アパートのこの階にある部屋のすべての天井裏が間仕切りなしに続いていることを彼女ははじめて知った。  ごそり——と、何ものかが闇に蠢《うごめ》いた。あわてて明りを向けると一瞬光の中に男の姿が浮かびあがった。男はすぐに毛布らしいものを頭からひっ被った。 「あなた」稀夢子は喜びの声をあげた。「あなた、やっぱり、そこにいたのね」  彼女はいそいで懐中電燈を口に銜《くわ》え、天井板を踏み抜かないように用心しながら梁《はり》づたいに四つん這いで彼の傍へ寄っていった。 「ねえ。お願い。帰ってきて頂戴。わたしが悪かったのなら、そう言ってくだされば悪いところは改めます。だから下へおりてきて頂戴」わあわあ泣いた。「ねえ。黙ってないで何とか言って」  稀夢子は彼の毛布をむりやりひっぺがした。 「あ……」  夫ではなかった。 「あなたは、お隣りのご主人」 「許してください」男はおどおどした声でいった。「黙っていてください。わたしは三日前に蒸発したんです。だけど行くところがないのでここにいました」 「でも、お宅の天井裏はもっとあっちの方でしょう」稀夢子はそういった。「ここはわたしの寝室の天井裏」 「わ、わたしは、わたしは」男は口ごもった。  階下の寝室から天井板を通して洩れてくる明りが男の髭《ひげ》づらを照らしていた。 「あら見てたのね」稀夢子は叫んだ。「わたしの寝乱れ姿を。わたしの裸を。わたしの……」稀夢子はまっ赤になった。 「すみません。見ずにはいられなかったので」男は顔を伏せたまま沈痛な声でいった。「あなたの美しさに、わたしは魅了されたのです。あなたの裸体はあまりにも、あまりにも……」顔をあげた。  稀夢子はあわてて明りを消した。暗がりの中で男の鼻息が急に荒くなった。 「あ、あなたは裸なのですか」はじめて気がついたらしかった。「あなたは今、す、すっ裸ですか。そうですか」  稀夢子はじりじりと後退った。「そんな大きな声を出すと、お宅の奥さんに聞えるわよ」 「妻は今、外出中です」男はじりじりと稀夢子に迫った。 「奥さん。わたしはこの天井裏で、あなたのその蠱惑《こわく》的な姿態を眺め、上からひそかに、あなたに恋い焦がれていたのです。屋根裏の散歩者の人知れぬ熱烈な恋。ああ、それが何と切なく、またはかなく、そして何と突拍子もないものであるか、あなたにはおわかりでしょうか。でも奥さん。今、あなたはわたしの前にいる。手をのばせば届くほどのすぐ前に。しかも裸で」  男がぴちゃぴちゃと舌なめずりする音さえ聞こえ、そのぬめぬめと光る異様に赤い唇を連想して稀夢子は身をふるわせ、いつか闇の中でにっ[#「にっ」に傍点]と笑っていた。もっともそれは、必ずしもひと昔前のミステリイの登場人物が演じた恐怖の身顫いではなく、恐ろしさのあまりの笑顔でもなかった。幾分かは彼女も、この異常なシチュエーションを楽しんでいたのである。 「傍へよらないで。汚ないわ。あなたはけだものよ」 「その通り。わたしはけだものです。天井裏に住む醜いけだものです」  ふたりはいつの間にか、それらしい科白《せりふ》のやりとりを面白がっていた。 「奥さん。どうかけだものに、情けをかけてやってください」  男の掌が稀夢子の内股に触れた。 「ひっ」と、稀夢子が軽く叫んだ。  その悲鳴の中に微妙な割合いで含まれている歓びの感情を敏感に聴きわけた男は、たちまち勇気を得て稀夢子の身体の上にのしかかってきた。足がかりにしていた梁から、ふたりの身体がはみ出した。  天井板が、はげしい音をたてて破れた。  ふたりが墜落したところは風呂場だった。稀夢子はタイルの上に落ちたが、男はプラスチックの風呂蓋をさらに突き破って煮えくり返った熱湯の中へ頭からさかさまにとびこんだ。 「あちちちちちち」 「助けて。助けて」稀夢子は風呂場からとび出し、すっ裸の股間からタンポンの糸を垂らしたままアパートの廊下へ駆け出て、声をかぎりにわめいた。「誰か来て。助けて下さい」  同じ階の住人たちが、仰天してそれぞれの部屋からとび出してきた。あまりの騒ぎに、とうとう一階に住んでいる管理人までがやってきた。彼は風呂場に入り、天井の破れ具合を見て眼を剥き、牙を剥いた。そこへ隣室の主婦が外出から戻ってきた。  騒ぎは夜中の二時まで続いた。    3  翌朝、稀夢子が眼醒めたのは十一時過ぎだった。ドレッサーの前に腰かけてみると、額に小さな瘤《こぶ》ができていた。バンソーコーを貼ろうとしたが、まちがえてドレッサーに貼ってしまった。面倒になり、貼るのをやめた。生理はまだ続いていた。  昨日と同じ服を着てまた出かけた。商店街を抜け、駅前の銀行で預金をぜんぶおろそうとした。 「少し残しておかれた方がいいのでは」  若い銀行員が心配そうな顔で彼女を眺め、そういったので、五千円だけ残して八十二万円出した。ハンドバッグの中にはコンパクトやハンカチや小銭入れや何やかやをいっぱい入れていたので札束が入り切らなかった。札束の入った銀行の封筒を右手に持ち、ハンドバッグを左手に持って歩くことにした。  駅前でタクシーを呼びとめ、日比谷へというと、運転手は稀夢子が乗るなり返事もせずに車をスタートさせた。運転手は稀夢子が何を話しかけても口をきかなかった。上流階級の人間に反感を持っているに違いないと稀夢子は思った。だが、いくら上流階級の人間といっても、女なら別の筈だがと思い、きっと自分が醜男《ぶおとこ》なので美人に反感を持っているのだと思った。カー・ラジオはフリュートでボサノバをやっていた。窓から見あげると、空は晴れていた。稀夢子はにこにこ笑った。協和機器工業のビルの前で車を降りる時も、彼女はにこにこ笑っていた。  夫が立っていたというバス停に、稀夢子は立ってみた。周囲を見まわしたが、禿頭《はげあたま》の紳士はどこにもいなかった。バスがやってきたら乗ってみよう——稀夢子はそう思った——女というものは判断力がないが直感が鋭い、だから、もしかすると夫がどこでバスを降りたか、わたしにはわかるかもしれない——。  バスはなかなか来なかった。稀夢子は背後のビルをふり仰いだ。夫は、このビルに入ったのかもしれない——彼女はまた、そう思った——バスに乗る前に、このビルの中を調べてみようかしら、でも、バスを待っていた方がいいかもしれない——。  バスはなかなか来なかった。  ガラス・ドアを押してビルの中に入ると、右側一列に五台の自動エレベーター、左側には階段があった。向かいの、協和機器工業のあるビルの一階と、よく似ていた。まん中の車道をはさんで、ほぼ対称形をなしているようだった。エレベーターの前で考えこんでいると、中年の頭の禿げた立派な紳士がガラス・ドアから入ってきて、停っているエレベーターに乗った。ドアが閉まる直前に、稀夢子も大いそぎでそのエレベーターにとび乗った。ゴンドラの中には紳士と稀夢子のふたりだけだった。稀夢子は大きく眼を見ひらき、紳士を凝視した。紳士は稀夢子に微笑みかけ、軽く会釈した。稀夢子はにこともせず、紳士を凝視し続けた。  紳士は三階のボタンを押してから稀夢子に訊ねた。 「何階へいらっしゃるんですか」 「三階です」  紳士は怪訝《けげん》そうに稀夢子を眺め、こころもち肩をすくめた。  ゴンドラが三階で停り、稀夢子は紳士に続いてエレベーターを降りた。  三階にある会社は一社だけらしく、それは『大和計算機工業株式会社』という会社だった。稀夢子は紳士の入っていったドアのガラスに黒いエナメルで揮毫《きごう》された社名を眺めながら、これは夫の勤めていた会社の商売敵だわと思った。彼女は考えた——ひょっとすると、夫は実はこの会社の社員で、協和機器へ潜入していた産業スパイだったのじゃないかしら、給料が多かったのは、両方の会社からお金を貰っていたからで……。 「いらっしゃいませ」ドアを押しあけて入ると、中は広い事務所になっていて、受付のBGが頭をさげた。「どちらさまでいらっしゃいますか」  稀夢子が黙っていると、BGはさらに訊ねた。「あの、ご用件は」 「蒸発について、お伺いしたいのです」稀夢子はきっぱりとそういった。  BGはにこやかに頷いた。「蒸発課はここでございます。どなたのご紹介でいらっしゃいますか」  稀夢子は事務所を見まわし、窓ぎわの席にかけている禿頭の紳士を指さした。 「ああ。千田課長ですね。少々お待ちください」  BGは担当の若い社員の席へ行き、そっと何ごとか耳うちしはじめた。その社員はBGの言葉をぜんぶ聞き終ってから、弾かれたように立ちあがり、愛想笑いを浮かべながら稀夢子に近づいてきた。 「ようこそいらっしゃいました。千田課長のご紹介だそうで。わたしは開発課の馬野です」 「いいお名前です」 「当社では、新しく来られた方には会社の事業についてのご説明や、社内のご案内などをしてさしあげることになっております」 「ご親切に」稀夢子は深く頭をさげた。 「こちらへどうぞ」馬野という社員は稀夢子を廊下へ導きながら喋り続けた。「申すまでもなく当社は、おもて向きは大和計算機工業株式会社ということになっておりますが、実はそれはまっ赤ないつわり、ほんとは『人間蒸発株式会社』でございます。資本金は八十二万五千円ですが、昨日三万九千円増資いたしまして現在は合計八十六万四千円です。正社員は三十名ですが顧問や嘱託が二十六名います」 「お金をとって蒸発させるのですか」 「蒸発希望者からはお金はいただきません。なにしろ蒸発しようという人は、たいてい普段着のままでここへやってきますから、多額のお金は持っておいでじゃございません。中には百円しか持たず、サンダル履きで見える方もあります。いいですか。蒸発志向者にとってだいじなのは、蒸発しようと決心した時のその精神なので、お金ではないのです。所持金や身装りにこだわるような人は、蒸発しようなんて考えたりはしません。蒸発に必要なのは意志だけです」彼は軽く頭を下げた。「これはお説教じみたことを。失礼いたしました」 「いいんですの。でもそういうことは週刊誌で読んで知っています」 「左様でございましょうとも」彼は廊下の右手のドアを開けた。「ここは再就職教育室です」  中は教室になっていて、数人の男が料理の講習を受けていた。刺身庖丁を手にした白髪の老婆が鮮魚を半身におろす方法を実演して見せていた。 「蒸発した人は、自身の希望する職種の講習を受けることができるのです。今、板前の授業中です」と、馬野はいった。 「どんな職業でもいいのですか」 「上は事務屋さんや歌手や競馬の騎手《ジョッキー》から、下は八百屋の小僧やタクシーの運転手や、はてはバスの車掌にいたるまで、どんな職業指導でも受けられますし、卒業の際は就職の斡旋もやります。商売を始めたい方には資金もお貸しします」彼はその向かい側のドアをあけた。「ここは証書類偽造室です。にせの身分証明書やインチキの戸籍謄本、でっちあげた履歴書などを作っています。では上の階へどうぞ」馬野は稀夢子を廊下のつきあたりの階段から四階へ案内しながらいった。「この会社は、再就職した人たちの寄附金によって運営されています。寄附金は多額です。ここから再出発した人たちは、いずれも自分が前からやりたく思っていた仕事をやるわけですから、例外なく成功するのです。タンポンの発明者や、今の流行歌手の三分の一はここの卒業生です」  四階は最初の部屋が手術室になっていた。「ここが整形手術室です。新しい顔になって人生を再出発したい人は、ここで他人の顔になるのです。整形美容もします。この部屋からはテレビや映画のニュー・フェイスも何人か巣立ちました。声も変えられます」  手術台では今しもひとりの男が数人の医者から押えつけられ、顔の皮を剥がれているまっ最中だった。 「あの男は、『蒸発人間の顔の他人』というひどい映画を作った男です。彼に笑いものにされた蒸発者たちの怒りが念力となり、彼は自ら蒸発者になってしまいました。今、彼は、自分が映画の題材にした実在の蒸発者と同じ顔になって社会へ復帰しようとしています」 「で、彼の新しい職業は何ですの」 「蒸発者です。それが彼の希望なのだからしかたがありません。そして『帰ってきた蒸発者』という映画に主演するそうです。さあ。こちらへどうぞ」  隣室は広いロビーになっていて、数十人の蒸発者たちが落ちつかぬ様子でうろうろと歩きまわっていた。その中には、あの事務屋の佐川の端正な顔も見られた。彼は白眼を剥《む》き、ぜいぜいあえいでいた。また、他の数人はすっ裸だった。彼らの陰茎はいずれも勃起《ぼっき》していた。  彼らの様子をしばらく眺めているうちに、稀夢子はだんだんうすら寒くなってきた。ふと気がつくと、自分もすっ裸になっていた。 「あら。いや」あわてて両手で前を覆いながら、彼女は馬野にいった。「ここには、わたしの主人はいませんわ」  いつの間にか馬のようにながい顔になった馬野が、ひんひんと笑いながらいった。「ここにいる男たちは、誰ひとり結婚を希望していません」 「そうじゃありませんの。わたし、蒸発した主人を探しているんです」 「何ですと」馬野の顔が、おどろきでさらにながくなり、たちまち彼もすっ裸になってしまった。「じゃあ、あなたは蒸発志願者じゃなかったんですか」 「ええ」稀夢子はなるべく馬野の股間を見ないようにして喋った。その部分がどんな状態になっているか、彼女は知っていた。「きっともう、ここを卒業してしまっているんですわ。お願いですから、彼がどんな名前で、どんな顔になって、どこで何をしているのか教えてください」 「残念ですが、それはお教えできません」 「じゃあ、この会社のことを警察や新聞社へ行って喋り散らすわよ。いいこと」  馬野の顔は狼狽《ろうばい》と困惑で、床と天井に届きそうなほどながくなってしまった。 「しかたがありませんな」彼は荒い大きな鼻息とともに肩をすくめた。「では、資料室へ来てください。ご主人のカードをお見せします。そのかわりこの会社のことは絶対に外部へは洩らさないでくださいよ」  馬野はロビーの中を横切って、部屋の隅へ稀夢子を導いた。周囲の男たちが、じろじろと彼女の均整のとれた肉体を眺めた。今や彼らはすべて裸体だった。  わたしはきっと、この男たちすべてにとって高嶺の花なんだわ——稀夢子はそう思った——蒸発者なんて、みんな下層階級の人間なのよ、きっとそうなのよ、そうなのよ、夫だってそうだったわ——。  ロビーの隅には押入れがあった。  馬野に続いて稀夢子も押入れの上段にあがり、そこから天井裏に這いあがった。天井裏が資料室になっていた。両側に数台ずつ並んでいるキャビネットのひとつからファイルを出した馬野は、その中のカードの一枚を抜き取り、稀夢子に見せた。 「これがあなたのご主人の、現在の顔です」  懐中電燈の明りでそのカードを眺めた稀夢子は、カードの右端に貼ってある写真の顔を見ておどろいた。  それは福原の顔だった。 「お乗り、お早く願います」  ヒステリックな女車掌の声に、バス停に佇んでいた稀夢子は一瞬われにかえった。白昼夢に浸っていたため、バスがやってきたのに気がつかなかったのだ。 「すみません。ぼんやりしていて」稀夢子はあわてて都バスに乗り込んだ。  車内は空いていた。乗客は稀夢子を含めて五人だった。稀夢子が女車掌のすぐうしろの席に腰かけるとバスはお濠端を走り出した。女車掌が乗車券を売りに車内をうろつきはじめた。  このバスは夫の乗ったバスと同じバスかも知れないと稀夢子は思った。——そしてこの女車掌がもしかするとその時の女車掌で、さらにもしかすると夫がどこで降りたかを憶《おぼ》えているかも知れない。——訊いてみようかと思ったが、女車掌の仏頂面を見た途端そんなことを訊くのは実に無意味だと彼女は悟った。  さっきの白昼夢の中で、夫の顔が福原の顔になっていたことを思い出し、あれはわたしの願望だったのだろうかと彼女は考えた。——わたしは福原を好きになりかけているのだろうか、帰って来ない夫よりもむしろ福原を……。——それとも、福原を求めているのはわたしの肉体だけなのだろうか——。  乗客のひとりが立ちあがり、女車掌に向かって大っぴらにいたずらをはじめた。やがて女車掌が悦びの表情をあらわにして断続的に絶叫しはじめたので、稀夢子はあわててバスを降りた。  降りたところは銀座だった。稀夢子はあわてたままでデパートに入り、大いそぎで化粧品を買いあさった。デパートのいちばん大きな紙袋に高級化粧品をしこたま詰めこみ、封筒の中にまだ数十万円残っている金を人に見られないようにそっとデパートの屑籠に落し、有楽町へ出て山手線に乗った。  福原に身体をやろうと決心したため、稀夢子はうきうきしていた。笑い続けた。笑い続けながら、彼女はいつまでも山手線に乗っていた。山手線は東京の都心部をぐるぐるまわった。稀夢子もぐるぐるまわった。  日が暮れかかり、退勤時間で国電が混みはじめた。稀夢子は国電を降り、商店街を抜け、アパートへ向かって歩き出した。歩きながら、今夜の福原との行為を想像し、時どき嬉しげにくすくす笑ったり、呻き声の練習をしたりなどした。  通りすがりに八百屋に寄り、あの若い店員に赤ん坊の腕は売っていないかと訊ねた。若い店員が赤ん坊の腕は置いていないと答えたので、稀夢子はそうなのといって金を出し、キャベツをたくさん持ってくるように頼んだ。アパートへ帰り、服を脱いで裸になり、台所で化粧品をぐつぐつ煮た。  やがて誰かが入口のブザーを鳴らした。稀夢子はいそいで洋間へ行った。ソファに横たわってからぐいと血まみれのタンポンをひっこ抜き、彼女は大声で叫んだ。「お帰りなさいあなた。鍵はかかってないわよ」 雨乞い小町  左京の南東のはずれにあるおれの家から、山科の小野小町《おののこまち》の家までは、たいして時間がかからない。だから、よく遊びに行く。  遊びに行けばたいてい彼女の家には、良峯宗貞《よしみねのむねさだ》、文屋康秀《ぶんやのやすひで》、安倍清行《あべのきよゆき》などといった歌人連中が集まっていて、酒を飲んだり馬鹿話をしたり、めちゃくちゃな和歌を作ったりして笑いころげている。  ところがその日は、常連が集まっているにもかかわらず、なんとなく座がしんみりしていた。みんな、黙って扇を使っているだけである。 「あら。男前がきたわ」と、小町がおれを見てそういった。今日は薄化粧だった。  いつもなら彼女のことだから、ここで色気たっぷりの軽口を吐いて一同を笑わせるのだが、今日はなぜかしら沈んでいるように見えた。淋しげに勾欄《こうらん》にもたれたままだ。 「業平《なりひら》。えらいことになったぞ」良峯宗貞が仰向けにひっくり返り、天井を見つめたままでおれにいった。  この男はめったに物に動じない男で、どんな騒ぎが起ろうと自らは客観的立場に立って、それを茶化したり、時には煽動して面白がったりする人間なのである。その宗貞が考えこんでいるのだから、事は相当重大であるらしく思えた。 「何ごとだ」おれは腰をおろしながら皆の顔を見まわした。  最年少の、文屋康秀の顔が見えなかった。 「康秀がいないな。彼の身に何かあったのか」と、おれは叫んだ。「駈け落ちでもしたか」 「あなたじゃあるまいし」小町が笑った。「あいかわらず早合点するのね。それほどの重大事でもないわ」  おれは、ややほっとした。  そういわれると、ますます聞きたくなるのが人情というものである。おれは宗貞に身をすり寄せた。「そんなこといわずに、教えてくれよ。なあ」  もちろん、仲間であるおれに話してくれないなどということはない。それはわかっているのだが、やはり多少の演技をして見せあわないと、お互いに面白くないのである。  宗貞はくすくす笑い出した。「やめろ」  常連の中ではいちばん真面目な安倍清行が、いつものように少し急《せ》きこんだ喋りかたで話しはじめた。「朝廷ではついに、雨乞いの和歌を天に捧げることに決定した」 「ははあ。名僧知識たちの祈祷も、効果はなかったか」おれはかぶりを振った。「無理もない。あのうす馬鹿坊主どものお祈りでは、竜神もお出ましくださるまいなあ」 「言ってやろ」小町が眼を丸くして一同を見まわした。「ひどいわねえ。うす馬鹿坊主だって」  今年——つまり承和七年は、春ごろからひどい旱魃《ひでり》だった。梅雨期に入っても雨は降らず、この分ではまた、どえらい飢饉が起りそうだった。事実、農作物はあちこちで、はや枯れはじめていたのである。  朝廷ではもうだいぶ前から諸神諸仏に祈祷をして、ありとあらゆる雨法を試みていた。だが、依然雨は降らなかった。  こういう際、雨の降る降らぬは時の天子の徳不徳にまでかかわりあってくる。もちろん、一年くらいの飢饉では天子はじめわれわれ都会人までが苦しむということはなく、困るのは常に百姓なのだが、百姓の信用がなくなると天子といえども、位が続くか続かないかの分かれ目になる。だから朝廷でもおおいにあわてているわけだ。 「しかし、歌を詠んで天に捧げるとは妙なことを考え出したものだな。ところで、その歌を捧げる歌人というのは、誰だ」 「ことは重大だから、朝廷の会議ではその人選でもめにもめた」と、清行がいった。「この宗貞にしようといったり、源融朝臣《みなもとのとおるあそん》がいいという奴もいたり、あんたの兄さんの在原行平《ありわらのゆきひら》がいいといい出す者もあり……そうそう、あんたの名前も出たそうだよ」 「こんな奴に雨乞いをやらせたらたいへんだ」と、宗貞がいった。「この色気ちがいがおかしな和歌を詠んでみろ。雨が降らずに淫水が降る」 「また、そんなお下品な」小町が眉をしかめて宗貞を睨んだ。「おつつしみください」 「それから、大伴黒主《おおとものくろぬし》の名前も出たよ」  全員が吹き出した。 「やらない方がましだ」と、おれは叫んだ。「あんなやつにやらせたら、きっと竜神の気にさわることをやって、カンカン照りになってしまうぞ。むこう十年ぐらいは雨が降らなくなる」  われわれが馬鹿話を始めると、必ず俎上にのぼされて悪口をいわれるのがこの大伴黒主である。むろん根は善良な人物なのだが、おっちょこちょいでお喋りで、常に舌禍《ぜっか》やトラブルのたねをまきちらしている。悪口をいって笑いあうにはこれ以上恰好の人物は他にない。この男はおれたちのグループに異常なほどの敵意と関心を持っていて、常にわれわれの行動を監視している。おれたちが揃って花見に行ったりなどしてしばらく家を留守にすると、どこへ行ったのかと近所の家で根掘り葉掘り聞いたりするそうだ。この敵意と関心の中には、自分がおれたちのグループへ参加させてもらえなかった嫉妬もあるらしい。  黒主が、同じ歌人としてもっとも敵意を燃やしているのは、小野小町である。おっちょこちょいのくせに恥をかくのをいやがるから、また、どうせ振られるとわかっているから、他の男たちのように小町に恋文や恋歌をよせることはしなかったらしいが、幾分は惚れてもいるようだ。ところが一方歌あわせの会などでは、しょっちゅう小町からやりこめられている。そこで可愛さあまって憎さがというわけであろう。小町が新しい歌を詠むたびに、あれは駄目だということを、そしてなぜ駄目かということを歌人仲間にふれて歩く。聞かされる方では彼のことをよく承知しているから、適当にあいづちを打ちながらも腹では笑っているのである。そしてさらにおれたちは、そんな噂を聞くたびにまた彼をサカナにして馬鹿話に興じるのだ。 「大伴黒主には、才能はあるが人望がない——これが彼の、人選からはずされた理由だ」と、清行は続けた。「それから、あんたが落選した理由は……」 「もういい」おれはあわてて、彼を押しとどめた。「いわれなくても、だいたいわかっている。そんなことより、結局誰に決ったんだ」 「わたしなんだってさ」小町が、投げやりな調子でいった。「竜神は男だから、女のわたしが詠めばお気に召すだろうということらしいわ」 「なるほどな」おれはうなずいた。「ただ、あなたは美人すぎるから、竜神はあなたに見とれてしまって、雨を降らす前に自分が落ちてくるんじゃないか」 「およしなさいよ。竜神に聞こえるわよ」やんわりとおれをたしなめてから、小町はまた顔を曇らせた。 「しかし、もしそれで雨が降らなかったら、どうなるんだろう」おれは心配になって、横たわったままの宗貞に訊ねた。 「大伴黒主が喜ぶだろうなあ」と、清行がいった。 「いや、あんなやつはどうでもいい。心配なのは藤原一族のことだ」と、宗貞が眼を閉じたままでいった。「小町をいちばん強く推薦したのは、きっと帝《みかど》だろう。小町が和歌を天に捧げて雨が降らなければ、ますます帝の権威は失墜する。すると喜ぶのは藤原一門だ」  大納言良房を筆頭とする藤原一門の専横は、今や目にあまるものがあった。一族の女を次つぎと親王の女御《にょうご》にとさし出し、閨閥《けいばつ》を作りあげ、男たちはすべて朝廷内の要職について勢力をひろげ、邪魔になるものはみな追い払われてしまっていた。采女《うねめ》だった小町が朝廷から追い出されたのも、彼女の美貌に嫉妬した藤原の女たちの仕業にちがいなかったのである。  もしも今、帝の権威が少しでも失墜するような事件があったなら、良房たちはしめたとばかりにますます政事に口出しするようになり、その専横ぶりがさらにはげしくなるであろうことは眼に見えていた。そしてまた、自分たちの一族の女たちが生んだ子を次の帝にする画策を始めるにきまっていた。  そんなことになればおれたちだって、ますます都に住みにくくなる。なぜならおれたちの仲間はほとんど反藤原派——つまり反体制側だったからである。 「責任重大だなあ」おれは小町に同情した。 「そうなの」彼女はほっと嘆息した。「わたしを選んでくださった帝のおこころざしはありがたいと思うけど、大役すぎるわ」 「しかし、逆に考えれば」と、清行がいった。「帝でなくても、たとえ誰が考えても、あなたを最適任者と指摘するんじゃないかね。これはお世辞じゃなく……」  まったく最近の小町の和歌は、仲間褒めなどではなく、すばらしいものばかりである。だからこそ、彼女が一首詠むたびに、その歌はたちまち都会へ拡がり、口コミにのって次の日には誰知らぬ者がないくらいに評判になるのだ。もちろんこれを苦にがしく思っている藤原一族の女たちや、大伴黒主のような存在もあることはある。 「でもわたし、今すごいスランプなのよ」と、小町はいった。「このあいだの歌会でも、何も出てこなかったのよ。あの時はどうしようかと思ったわ。もらった短冊が赤かったから、いっそのこと『あかよろし』と書いてやろうかと思ったくらいだわ」 「そんなことを書いたら大変だ」と、清行が真面目な顔でいった。「だってこの時代には、まだ花札はない[#「ない」に傍点]」  そこへ文屋康秀がやってきた。彼はおれたちの仲間うちでは最も歳が若いが、それだけに情報の収集能力もある。話題を提供してくれるのはいつも彼である。彼は今日は、おかしな男をひとり、つれてきていた。 「今日はおかしな男をひとり、つれてきました」彼はにやにや笑いながら、その男をおれたちに紹介した。「星右京《ほしのうきょう》という人で、自分は千年余りのちの、二十世紀という未来からやってきたといっています」  右京と名乗るその男は、なぜだか知らないがやたら不必要な大声で話す、よく肥った男で、眼球がトンボのように大きく見える器具を鼻の上にくっつけていた。 「未来からきたんだって」宗貞がおどろいて、むっくり起きながら訊ね返した。「いったい、どうやって」 「時を遡行《そこう》する仕掛けの機械《からくり》に乗ってきたそうです」康秀はそういってから、右京に訊ねた。 「ええと、何といいましたっけ」 「タイム・マシンです」と、右京は答えた。「ところで、この人たちは何ですか」  康秀がおれたちを順に紹介した。  右京は少しおどろいた様子だった。「良峯宗貞といえば、のちに僧正遍昭《そうじょうへんじょう》となられる人ですな」 「おれが坊主になるというのか」宗貞は苦笑した。「ありそうなことだ」 「だとすると」と、右京は続けた。「あと、喜撰《きせん》法師と大伴黒主を加えれば、六歌仙が揃うことになりますな」 「なんですか。その六歌仙というのは」と、清行が訊ねた。 「この時代に、もっとも歌がうまかった人六人をえらび、のちの世では六歌仙と称しているのです。もっともその中には、さらにのちの世から見て、たいしたことのない人も混っていますが」と、右京はべらべら喋った。「つまりそれは僧正遍昭、在原業平、小野小町、文屋康秀、喜撰法師、大伴黒主の六人です」 「おれの名前がない」清行はがっかりしてうなだれた。「では後世、おれの名前は残らないのか」 「いやいや。もちろん残っています」右京は、なだめるようにそういった。「それどころか、あなたの歌が六歌仙以上のものだとする国文学者もいます」 「ふん」彼は少し機嫌をなおした。「お世辞じゃあるまいな」 「大伴黒主まで、六歌仙に入ってるの」小町はしぶい顔をした。「いやだわ。あんな人といっしょじゃ」 「そんなこといったって、しかたがないさ」と、おれは小町にいった。それから右京に訊ねた。 「のちのち、いちばん有名になるのは、この中では誰ですか」 「それはやはり、あなたと小町さんです」 「ふん」宗貞が鼻を鳴らした。 「やはり、美男美女は得ですね」と、康秀がお愛想をいいながら、手酌で酒を飲みはじめた。六歌仙のひとりになることが、よほど嬉しいらしい。 「もっとも、あなたの場合は」と、右京がおれにいった。「和歌よりも、色ごとの方で有名になっています。歌の方は、それほど認められていないようですよ」 「それ見ろ。だからいつもおれが忠告している」得たりとばかりに宗貞が喋り出した。「お前の歌はいつも、意あまって力不足、その上、自分に近い周囲の者や、流行の渦中にいる都の人間にしか判断できないようなものばかり詠んでいる。あれがいかんのだ」 「いや。おれは自分の歌を後世に残そうなどという気は毛頭ないから平気だ」おれは胸をはってそういった。「色ごとで有名になった方が嬉しい。おれが美男だったということの証明になる」 「ところが、今お顔を拝見した限りでは」と、右京はいった。「美男ぶりも、たいしたことはないようですな。二十世紀では、わたしの仲間にSF作家の筒井康隆というのがいますが、むしろその男の方が……」 「このひと、わりとずけずけものをいうわね」と、小町はいった。「では、わたしはどうなの」彼女は勾欄に肘《ひじ》をついてポーズした。 「あなたの場合は、和歌もよく知られ、美女であったことでも有名になっています」 「やはり、人柄のちがいなのね」彼女はじろりとおれを横目で見て、鼻高だかでいった。「色ごとには無関心だから」 「もっともその点で、悪口もいわれていますよ」と、右京はつけ加えた。「膣閉塞だとか、穴なし小町だとか」 「それは今でもいわれているわ。でもそれは藤原家の連中や、例の黒主だとかがひろめた噂なのよ」と、小町が弁解しはじめた。「わたしだって人なみに結婚したい気はあるの。だけど、わたしに恋歌を届けてくる男たちが、みんな揃いもそろってわたし以下の文才の持ち主ばかり。だから結婚する気になれないのよ。だって、いやじゃないの。そんな男の誰かと結婚したら、その男の人にとっても不幸だと思うわ。結婚生活だって、うまく行かないに決ってるわ」 「いかがです」と、おれは右京にうなずきかけた。「いやな女でしょう」  右京は巧妙に話をそらした。「あなたがたの誰かが、小町さんに恋歌を贈ったことだって、あるんでしょう」  宗貞が一同を見まわしながらいった。「いちおう、それらしいものはみんな贈っているな。なあに、それも口さがない都の連中に、話題を提供するためだ」 「ははあ。二十世紀のマスコミ文化人同士のゴシップ作りに似ていますな」と、右京はいった。そして酒壺の清酒を盃に注いだ。 「あんた。結婚なんかしちゃだめだよ」と、宗貞は小町にいった。「こうやって馬鹿話ができなくなってしまう。いやまったく、セックスなんかよりは、みんなこうして集まって他の連中の悪口をいっているのがいちばん楽しい」彼は不作法に袖をまくりあげた。 「われわれはすべて、反体制側にいます」と、清行が右京にいった。「だから集まって、権力者たちの悪口をいいあっているのです」 「ふうん。ヒッピーに似てないこともないな」ひとりごとのように、右京はそうつぶやいた。それからぐいと盃を乾した。 「そうだわ」小町が、眼を輝かせて叫ぶようにいった。「この人がほんとに、その二十世紀とやらの未来からいらっしゃったのなら、わたしの雨乞いの効果もご存じの筈よ」 「そうだ」と、康秀も叫んだ。「それを聞きましょう」彼は厨子《ずし》から勝手に酒を出した。 「ああ、例の雨乞い小町という奴ですな」右京はうなずいた。「それならのちの世の語り草にもなっています。雨は降るのです」 「わあっ。うれしい」小町が喜んでとびあがった。単《ひとえ》ものの裾がまくれあがった。 「だが、ちょっとお待ちください」と、右京がいった。「嬉しがらせてから水をさすようですが、時間の流れというものは単一ではありません。つまり、わたしの知っている過去と、わたしが今あらわれたこの過去とは、別の世界に属しているかもしれないのです」 「よくわからないわ」小町は首をひねった。 「説明しましょう」と、右京はいった。「わたしが二十世紀で読んだ歴史書では、たしかに小野小町が雨を降らせました。しかしその世界——つまりその歴史書の中には、星右京という人物は登場しません。ところが実際には、今、わたしはここにきています。すると、わたしが登場したために、歴史が変るかもしれないのです」 「それは、おかしいではないですか」と、宗貞がいった。「だって、雨が降っていなければ、あなたは雨が降ったという歴史書を読んでいる筈はないでしょう」 「そう。それがいわゆるタイム・パラドックスというやつです。ところがここに、このパラドックスを解決する理論がひとつあります。それがいわゆる多元宇宙理論です」 「なんですかそれは」清行が干魚を食う手をとめて訊ねた。 「この宇宙は、ただひとつの世界が一本の糸のような単一の時間の流れを追って進行しているのではなく、似たようないくつもの世界が時間の流れとからみあって進行しているのだという理論です」  おれには、わからなかった。「何がなんだか、さっぱりわからないよ」 「織物を考えればよろしい」と、右京はいった。「たくさんの世界が無数に平行して進行しています。これがタテ糸です。そのタテ糸を寸断し刻んでいる時間というものがあります。ヨコ糸です。わたしはタテ糸をさかのぼって過去へ戻るつもりが、からみあったヨコ糸のために、別のタテ糸へとび移ってしまったかもしれないのです」 「それでは、小町が雨を降らさなかった世界と、雨を降らした世界とが並行して存在しているというのか」宗貞は眼を丸くした。「それから、あなたがやってきた世界と、やってこなかった世界とが……」 「そうです」右京はうなずいた。「その他にもいろんな世界が、無数の事件の起った確率の数と、起るべき可能性の数だけ、無数に存在しているのです」 「それはもしかすると」と、おれは訊ねた。「どえらい数[#「どえらい数」に傍点]になるのではありませんか」 「無限に近い数です」と、右京は答えた。 「頭が痛いわ」と、小町がいった。 「信じられん」と、康秀がいった。 「だって、宇宙は広大無辺なのですから」と、右京は平然としていった。 「それだと困るわ」小町が裳裾《もすそ》の乱れをなおしながら向きなおった。「当然雨が降るべきだったところへ、あなたがやってきたために降らなくなったということも考えられるわけね」 「そうだ」と、清行が右京につめ寄った。「あんた。これは責任問題だよ」 「困りましたな」右京は考えこんだ。 「どうですか、右京さん」だんだん酔っぱらってきた康秀が、ろれつあやしくいった。「あんたは未来人だ。時間をさかのぼるような機械仕掛けを作れるくらいだから、雨雲を呼ぶ機械仕掛けだって作れないことはないでしょう」 「たしかに二十世紀には、人工降雨というのがあります」右京は困ったような表情で答えた。 「ドライアイスを飛行機から、雲にまくのですが、残念ながらこの時代では、どちらも作れない。材料がありませんからな」 「飛行機ですと」康秀が眼を丸くした。「空を飛ぶことのできる機械があるのですか」 「あります」 「うわあ」小町が憧れるような眼つきで、夏空を見あげた。「飛んでみたいわあ」 「どんな材料が必要ですか」と、宗貞が訊ねた。「できる限り、集めますよ」 「金属が何種類か必要ですし、技術も必要です。とてもだめでしょう」右京は答えた。 「唐金《からかね》ならありますよ」と、おれはいった。「唐金と材木だけで作れませんか」 「グライダーなら作れるでしょうが」右京は悲しげにかぶりをふった。「わたしは航空力学に詳しくないんです。プラモデルでしか作ったことがない」 「それ以外に、雨を降らす方法はないんですか」清行は眉を曇らせた。 「一八一五年、ワーテルローの戦いで大砲をぶっぱなし続けた音が、雨雲を呼んだという話がありますが」右京はいった。「この時代で、いちばん大きな音を出すものは何ですか」 「銅鑼《どら》でしょうな」と、宗貞がいった。「しかし都には、数えるほどしかない」 「それではとてもだめだ」右京はまた、かぶりをふった。「わたしも気ちがい科学者《マッド・サイエンティスト》のはしくれ、乗ってきたタイム・マシンの中には、いくつかの機械を積みこんできています。それを組みあわせて作ったところで、せいぜいステレオ・スピーカー程度の音を出すものしか作れないでしょう」 「それ以外に、雨を降らす方法はないんですか」ますます悲しげな顔で、半泣きになりながら清行が訊ねた。 「ええと、そうですなあ。その他には」右京はまた、考えこんだ。「たしかヨウ化銀煙の発生装置を使い、ヨウ化銀煙を上昇気流に乗せて雲のあるところまで送る方法もあるようです」 「ははあ。それなら空を飛ばなくてすむから、何とか作れそうですね」康秀は調子よく浮かれて、歌うように叫んだ。「それを作りましょう、作りましょう」 「だってあんた」右京はびっくりした。「ヨウ化銀がないでしょう」 「銀なら、わたしが集めてきますよ」と、おれはいった。「最近、あちこちに銀山が開発された関係で、銀の装飾品がやたらに作られています。わたしの数十人のガール・フレンドが持っている銀の装身具をぜんぶまきあげてきたとしたら、ひと山かふた山はできるでしょう」 「銀じゃない、ヨウ化銀です」そう投げやりにいってから、右京は突然ぱっと眼を光らせ、庭さきの上空を睨みつけた。「銀がある。ヨウ化銀はAgIだ。銀がAgでヨードがIだ。では、あとはヨードがあればいいのだ。ヨードはすなわち、沃素だ。沃素は何からとるのだ。沃素は……」彼は立ちあがった。「よろしい。やって見ましょう。煙の発生装置は、なんとか作れるでしょう。あなたがたにも手伝っていただきます」 「何をすればいいのです」と、おれは訊ねた。 「あなたはだから、銀製品を集めてきてください。装身具、銀器、銀貨、多ければ多いほどよく、また、純銀でなくても差支えありません。それから良峯宗貞さんは、多少科学的知識もおありのようだから、わたしが発生装置を作るのを手伝ってください。また、文屋康秀さん、安倍清行さんは、これからすぐ近くの海岸へ行き、海草を採集してきてください。採集した海草は低温で焼き、その灰だけ持って帰ってきてください。これも、多ければ多いほどよろしい。時間の許すかぎり、大量の灰を持ってきてください」 「わたしは何もお手伝いできないわ」どうやら人工降雨術の結果をそれほど信じてはいないらしい小町が、やや投げやりにいった。「明日は宮中へ参内《さんだい》、その次の日からは十七日間、斎戒《さいかい》に入らなければならないの」 「あなたは手伝わなくていい」と、宗貞がいいながら立ちあがった。「では、早速かかろうではないか」  全員が立ちあがりかけた時、小町が右京に訊ねた。「ちょっと待って。あなたの読んだ歴史書には、雨乞いの時にわたしが詠んだ歌は出ていなかったの」 「出ていましたよ」 「それを教えて」 「カンニングだ」康秀があきれて、そう叫んだ。「ずるいぞ」  小町は康秀を睨んだ。「なにいうの。もともとわたしの詠んだ歌じゃないの」 「たしか、こうでした」と、右京はいった。「ことわりや日の本ならば照りもさめ、さりとては又天《あめ》が下とは」 「なんてへたくそな歌だ」おれたちは全員、口をあんぐり開いた。「それが小町の歌とは、とても信じられん」 「でも、そう書いてあったんだから、しかたがないでしょう」やや不機嫌に右京はいった。「ほんとなんだから」 「心配しないで」小町はにんまり笑ってうなずいた。「それより、ちっとはましな歌を詠んでみせるわ。いくらスランプだって……」  さて、それから数日間のおれの活躍ぶり——銀製品をまきあげるために女たちの間を駈けまわったおれの苦労をくだくだしく書くのはいやらしいから省略しよう。とにかくその戦果は天下の色男在原業平の名に恥じないだけの分量だった。星右京によれば、のちの世で業平と呼ばれた色男は数多くいるそうだ。本人としては尚さらのこと、その二枚目ぶりを証明して見せなければならない。  ひとこといっておこう。おれがこれほどまでに小町の雨乞いを成功させようと走りまわるのは、決して小町という女に尽すためではない。もちろん彼女は無二の友人だから、失敗はさせたくない。しかし決して彼女に惚れこんでいるわけではなく、それよりはむしろ藤原一族の鼻をあかしてやりたい気持の方が多い。宗貞など、他の連中にしてもそうなのだ。  もっとも、おれは都一の美男であり、小町は都一の美女である。おれと小町が交際しはじめた頃、都の連中はさあ面白くなってきたとばかりに、おれと小町の恋のかけひきが始まるのを待ちかまえた。おれと小町は相談の上、彼らを失望させるのも気の毒だからというので、とにかく恋歌をやりとりすることにした。まずおれが、 「秋の野にささわけし朝の袖よりも、あはでぬる夜ぞひぢまさりける」  と、やると、小町が、 「みるめなきわが身をうらと知らねばや、かれなであまの足たゆくくる」  と返した。  それから、お互いにびっくりした。どちらの歌も、あまりにも大向う受けを狙った意図がありありと見えすいていて、真情のひとかけらもなく、いやらしいことこの上もなかったからである。おれたちはあわててその歌を破り捨てた。それからはもう、仲間うちだからというので歌のやりとりは絶対にしないことにしたのである。男と女がいれば、友人であるだけにとどまる筈など、ぜったいにないという奴もいるが、おれたちほどになってくると恋愛以上の楽しみを交際の中に見出すくらいは何でもないことであって、さらに有名になろうとするための有名人同士のなれあいの恋愛の馬鹿馬鹿しさはよく知っているのだ。  まあ、そんなことはどうでもいい。話を続けよう。  おれが銀製品獲得に駈けまわり、清行と康秀が難波津へ海草の灰をとりに行っている間、宗貞と右京は神泉苑の近くの野原に実験場とやらいう小屋を立て、その中でヨウ化銀煙発生装置や唐金のフラスコ、鉄のレトルト、凝縮器、沃素《ようそ》と銀の反応装置など、わけのわからぬ機械をいっぱい組み立てていた。  数日後、清行と康秀は供の者数人に海草の灰をぎっしり詰めこんだ袋をかつがせて京へ戻ってきた。そこでおれも、蒐集した銀製品を供の者二人にかつがせ、実験場へやってきた。この野原を実験場に選んだのは、小町が雨乞いをする雨法壇の設けられるのが、すぐ近くの神泉苑だからである。  おれたちは右京の指示にしたがい、海草の灰を粗《あら》く砕《くだ》いて槽《おけ》に入れ、これに水を加えた。槽は右京の作った特製の槽で、彼はこれに逆流式侵出の術というのを使って侵出液を作り、蒸発させた。塩ができたのでそれを除き、残りを別の槽に入れた。濃縮させるため、さらに二、三日はこれを静置しておかなければならない。  小町はすでに斎戒に入り、雨乞いの行われる日は刻々と近づきつつあった。都はもう、その噂で持ちきりである。それによれば小町は、雨乞いの当日だけ、仮に従《じゅ》四位下の位を授けられることになったらしい。どうせ授けるものならずっと授けちまえばいいのに、朝廷もけちなことをするものだ。どうせ藤原一族の指しがねだろう。  神泉苑の池には、すでに高く雨法壇が設けられ、金銀七宝でにぎにぎしく飾られていた。竜神にこんな金ピカ趣味があるとは思えない。これも藤原一族の趣味だろう。この神泉苑の池にはその昔、弘法大師が雨乞いをした時に金色の蛇があらわれ、滝のように雨を降らせたという伝説がある。こんどは小町の色香に迷ったピンクの蛇が出るかもしれない。  さて、濃縮された液からは塩化カリの結晶とやらが出たのでこれを除き、右京がタイム・マシンに積んでいた少量の硫酸を加えてわずかに酸性にした。それを鉄のレトルトに入れて加熱し、出た沃素蒸気を凝縮器に導いた。できた結晶がすなわち沃素である。  この沃素すなわちヨードと銀を反応させるとヨウ化銀ができるのだが、このころから右京があわてだした。 「たいへんだ大変だ。今まで忘れていたのだが、ヨウ化銀煙発生装置を働かせるための動力がない」 「そんなもの、なんでもないじゃないか」と、だいぶ機械仕掛けの原理がわかってきたらしい宗貞がいった。「あんたの乗ってきた機械の動力を使えばいいんだ」 「そんなことをしたら、二十世紀へ戻れなくなってしまう」と、右京がびっくりして答えた。 「エネルギーは定量しかないんだ」 「一生、ここに住む気はありませんか」と清行がいった。「ここも住めば都、なかなか楽しいですよ」 「そうだ。それにあなたの話に聞く二十世紀の世界よりは、こっちの方がずっとのんびりしている」と、おれもいった。「人情というものには、昔も未来も変りはありますまいが」 「われわれで、あなたの世話をしましょう」と、康秀もいった。「友達になってあげます」 「いやだ。いやだ」右京は、はげしくかぶりを振った。「二十世紀の方がいい」 「では、動力をどうします」と、清行がまた眉を曇らせた。 「人力エネルギーの発生装置を作ります」と、右京はいった。「できるかどうかはわからないが……」  彼はさっそく、滑車や歯車を材木で作り、組みあわせ始めた。野原のまん中に、異様な形の複雑な機械ができた。機械の一端からは長方形のながい跳板が突き出され、板の下には発条《ばね》がとりつけられた。この跳板の上に数人が乗り、ぴょんぴょん跳ねあがれば、それが機械仕掛けの内部でエネルギーとやらに変り、機械上部の装置の中のヨウ化銀を煙に変え、空へ舞いあげるという寸法らしい。  雨乞いの前日、われわれは人力エネルギー発生装置の試験を行なった。全員で跳板の上に乗り汗びっしょりになるまでぴょんぴょん踊り続けた。刺戟的な異様な匂いのする黄色い煙がほんの少し立ちのぼっただけだった。「明日はもっと、人数を集めてこなければなるまいな」と、宗貞がいった。  さて、いよいよ雨乞いの当日である。  おれたちはそれぞれ、家の者数人ずつを従えて早朝から野原に集り、気流の向きをたしかめてから人力エネルギーの発生にとりかかった。  昼少し前、神泉苑へ見張りに出しておいた者が報告にやってきた。「雨法壇の下には、錦綾の幕が張りめぐらされ、帝を中心としてその三方には公卿百官が列をただし、小町さまのおいでをお待ちでございます」 「そろそろ、はじまるぞ」と、宗貞が跳板の上でぴょんぴょん踊りながら叫んだ。「みんな、がんばれ」  しかし朝からのべつ踊り続けたため、みんなふらふらである。ヨウ化銀煙発生装置からは、なさけないほど少量のうす煙が、ぽかりぽかりと出ては夏空へ消えてゆく。これではとても、雨など降りそうもない。それでも全員、川へでも落ちたように全身汗でぐしょ濡れになりながら、ここを先途と息はずませてぴょんぴょん踊り続けた。  雨乞いの参列に遅れたらしい一台の肥馬軽車が、あわてた様子で野原へ駆けこんできた。それは、われわれの傍らでぴたりと停った。車から降りてきたのは大伴黒主だった。 「あんたたち、何してるのかね」  おれたちの気ちがいじみたありさまと、異様な機械を見て眼を丸くし、彼は近寄ってきてそう訊ねた。 「ちょっと、ね」宗貞は、わざと気をもたせるようにいい渋った。「人にはいいにくいようなことをやってるんだ」  穿鑿《せんさく》好きの黒主が、そういわれて納得するはずがない。もちろん、それを見越して宗貞はことばを濁したのである。黒主はさらに機械に近づき、跳板の上のおれたちを見あげて、訊ねた。 「この機械は、なんだい」 「これか、これは」宗貞は勿体ぶって、重おもしくいった。「不老長寿の梃子《てこ》といって、海の彼方より渡来した仕掛《からくり》だ」 「ほう」黒主は一瞬、疑い深そうにおれたちを睨んだ。「あんたたちは、小町の雨乞いを見に行かないのか」 「あんなものは、どうでもいい」と、おれは跳板の上で叫んだ。「おのれの不老長寿の方がだいじだ。なにしろこの仕掛《からくり》は、今日一日しか使わせてもらえない。この御人が」おれは右京を顎で指した。「明日になれば故国へ持ち帰ってしまわれる」  雨乞いの儀式さえ見に行かず、夢中になって踊り続けているわれわれを見て、黒主はおれたちのことばを信じはじめた様子だった。 「人間は本来、不老長寿であるべきなのです」おれたちの意図を悟ったらしい右京が、おごそかな声でそういった。「ところがなぜ、若死にしたり病死したりするか。それは体内に毒素が蓄積されるからであります。世間気、常識、雑念、これらすべては毒素となり、肉体を腐蝕するのです。この仕掛《からくり》は、それら毒素を、あれ、あのような黄色い異臭を放つ煙と変え、われわれの体内から追い出してしまうのであります」 「おれも乗せてくれ」と、黒主は叫んだ。 「ありったけの銀をお出しなさい」と、清行が叫んだ。「そしたら、乗せてあげます」 「出す出す」黒主は従者に命じて銀貨を出させ、さらに家まで、銀をとりに走らせた。  黒主を加え、おれたちはさらにヨウ化銀煙の発生に熱中した。  昼過ぎ、見張りの者がまた神泉苑から駈け戻ってきて報告した。「小町さまの乗られた紫絲毛の車は、今、雨法壇の下に着きました。神泉苑は、小町さまの雨乞いをひと眼見ようとする大群衆で、黒山のようです」 「いよいよ始まるな」と、黒主が気がかりな様子でいった。 「なあに。雨なんか、どうせ降りゃしません」と、康秀がいった。「それより、不老長寿に精を出しましょう」 「うん。そうしよう」黒主は、不様な恰好で腹をつき出し、おれたちと調子をあわせて、さらにぴょんぴょん跳板を踏み続けた。 「おい。見ろ」宗貞がおれの脇腹を突いた。  見あげると、いつのまにか頭上にはどんよりと雨雲が垂れさがりはじめている。 「しめた」  黒主を除く跳板上のおれたちは、にやりとうなずきあいながら、さらに腰と足に力を加えた。  見張りの者が戻ってきて叫んだ。「ただ今小町さまが、碧玉板に和歌を認められ、池へお浮かべになりました」 「その和歌とは」と、おれたちはいっせいに訊ねた。  見張りの者は答えた。「千早振る神も見まさば立騒ぎ、天の戸川の樋口あけ給へ」 「すごい歌だ」おれたちは一瞬、息をのんだ。「恐ろしいくらいのすごい歌だ。こういうものすごい歌を無視するとしたら、竜神はどうかしている」  その時、右京がひと声うめくと跳板からとび降り、掘立小屋の中へ駈け込んでいった。 「なんと」黒主が空を仰ぎ、あんぐり口を開いて悲鳴のような声を出した。「降ってきたぞ」  おれの鼻柱に、額に、水滴がぽつぽつとはじけ、やがてそれは小雨となって白い糸を引きはじめた。 「成功だ」と、おれは叫んだ。 「いや。これくらいの雨ではだめだ」と、宗貞はいった。「もっと降らなきゃあ。これっぽっちじゃ、屁の役にも立たん」 「みんなそこから降りろ」右京が、数本の黒紐の束の先端を握り、掘立小屋から走り出てきながら叫んだ。「タイム・マシンの動力を使って発生装置を作動させる」  小町の和歌を聞いて心を動かされ、予定を変えることにしたらしい。 「それだと、あんたが戻れなくなるぞ」宗貞がおどろいて叫んだ。 「かまわん。さあ早く降りろ。もう、原子力モーターのスイッチを入れてあるんだ」彼はそう叫び続けながら、おれたち全員が跳板から地上へとび降りたのを見すまし、黒紐の束の先端を機械の下部に接続した。じん[#「じん」に傍点]と腹にこたえる低い音を出し、機械がごとごと揺れながら唸りはじめ、誰も乗っていない跳板が、ひとりでにばたんばたんと、すごい勢いで眼まぐるしく上下しはじめた。 「や、これは魔法か」黒主は眼を見ひらいて、このさまを眺め続けている。  発生装置からは、もくもくと大量の黄色い煙が立ちのぼりはじめた。それに応じるかのように、雨はますますはげしくなった。  雨雲は雨雲を呼び、ついには雷鳴をともなった豪雨と変り、喜んであたりを踊りまわるおれたちの上に降りそそぎ、全員を濡れねずみにした。 「やあっ。これはいかん」黒主があわてて裳裾をたくしあげ、肥馬軽車に駈けのぼった。「神泉苑の様子をひと眼見ておかねばならん。天候熟し招かずとも雨の降る時に歌を詠んだとは、小町めなんと運のいい奴。それいそげやいそげ」  おれたちが降雨術を使い、自分もそれに参加したことをまだ気づかぬ様子で、黒主は肥馬軽車を走らせ、あわてふためきながら神泉苑の方へ駈け去った。  雨はますますはげしくなってきた。 「成功だ」全員が叫んだ。「大成功だ。藤原一族の鼻をあかしてやったぞ」  もっともこれは、のちに右京から聞いたところによると、すでに近づきつつあった低気圧とやらの足を早めさせ、雨を降らせるきっかけを作ってやっただけだということだったが、結果としてはどっちでもいいことであって、雨はそれからさらに数日間降り続いた。大地はうるおった。小町の評判は都の内外にますます高くなり、彼女は朝廷からいろいろの褒美をもらったらしい。  だがこのために、小町は藤原の女たちからますます憎まれることになった。これほどの手柄を立てていながら、彼女は朝廷に復帰することは許してもらえなかったし、以後彼女に対する朝廷の待遇がよくなったということもなかった。しかし小町は、大役を果したという安心感のためもあって、他のことはあまり気にしていないようだった。  藤原一族の専横ぶりはその後もますますはげしくなった。いちどなどは、藤原家の高子というちょっとした美女を、女御にしようとしたのでおれは腹を立て、東五条院に住んでいた彼女を誘惑して、都から奈良へ向かって駈落ちしてやった。もちろん、すぐ追手に捕ってしまい、都へつれ戻され、おれは無理やり頭を丸めさせられた上、東国へ下向せよとの朝廷からの恩命で、都からも追い払われてしまった。  東国の僻地を歩きまわって数年、都へ戻ってきた時は天皇の御代がかわっていた。そしてあきれたことに藤原一族は、あの当時おれとの浮き名で都中に評判になった高子を、いけずうずうしく女御にしてしまっていたのである。  また良峯宗貞は都に愛想をつかし、頭を丸めて僧正遍昭と名を変えていた。文屋康秀は三河の国へ赴任させられていた。  タイム・マシンの動力を使い果して二十世紀へ帰れなくなっていた星右京は、まだあの掘立小屋に住んでいた。彼はときどき小町の家へやってきては、おれと小町に、二十世紀へ戻りたい戻りたいといって、わあわあ泣いた。  小町はすでに中年のおばはん[#「おばはん」に傍点]になっていたが、歌の方では例の花の色はなど多くの傑作を詠み続けていた。安倍清行とはやや疎遠になったが、おれは小町や右京とは、その後もながい間交際した。  ところがある年の夏、右京はふいに行方をくらましてしまった。掘立小屋へ行ってみたが、あの機械とともに彼の姿は消えていた。どこかへ旅立ったのかもしれない。またあるいは新しい動力を見つけてあの機械に乗り、二十世紀へ帰ったのかもしれない。だがおれには、はっきりしたことはわからなかったし、その後も彼の噂を聞くことはなかった。 日本以外全部沈没 「おいおい。シナトラが東海林太郎《しょうじたろう》のナンバーを歌い出したぜ」おれと並んでカウンターで飲んでいる古賀《こが》がそう言った。 「ヤマノ、カラスガ、ナイタトテ」 「こわもてしなくなったシナトラに魅力はないよ」と、おれはいった。 「老後が不安なんだろう」古賀は小気味よさそうにいった。「歌えなくなったら、日本を追い出されるかもしれないものな」  おそらく追い出されるだろう、と、おれは思った。あの歳《とし》では、日本語を憶え、日本の生活様式を身につけて日本人に同化するのはまず無理である。だが日本政府は、日本国内に入国を許可された外人たちのうち、三年経《た》っても日本に馴染《なじ》まぬ者は強制的に国外へ追放する方針だった。 「で、日本に馴染んだかどうかは、どうやってテストするんだろう?」 「さあね」古賀は首を傾《かし》げた。「都々逸《どどいつ》でも歌わせるさ」 「箸《はし》で冷奴《ひややっこ》が食えるかどうか試してもいいな」  古賀はげらげら笑った。「日本式便所で大便をさせてみる。あっ、もっといいことがあるぞ。日本の早口ことばを喋《しゃべ》りながら羽織と袴《はかま》の紐《ひも》を結ばせるってのはどうだ」 「それは日本人でもできないやつがいるぜ。特に若いやつなんかは」  おれがそう言った時、古賀の横で飲んでいた初老の外人が溜息《ためいき》をついた。「アマリ、カワイソウナコト、イワナイデクダサイ」  見たことのある男だな、と思ってよく見るとポンピドーだった。さすが大統領だけあって頭がよく、すでに日本語をマスターしてしまったらしい。 「オイダサレテハ、イクトコロアリマセン」 「チベット高原、パミール高原、それにキリマンジャロの山頂、アンデス山脈の二、三か所はまだ沈没していませんよ」古賀が意地悪くいった。 「アンナトコロ、ユケナイヨ」ポンピドーは悲鳴まじりに叫んだ。「ヤバンジン、ウヨウヨ、アツマッテイル」  おれの右隣でさっきから飲んでいたインディラ・ガンジーが、酒の肴《さかな》に近所の店から取り寄せた朝鮮焼肉を食いながら言った。「あそこじゃ、殺しあいをしてるんですってね」  おれはびっくりして彼女に注意した。「あなた、それ牛肉ですよ」 「あら、人間の肉を食べるよりはましよ」  チークの厚いドアをあけ、毛沢東《もうたくとう》と周恩来《しゅうおんらい》が店内をのぞきこんだ。 「よその店へ行きましょう」周恩来が毛沢東の袖《そで》を引いた。「蒋介石《しょうかいせき》が来ています」 「くそ」  ふたりは、さっと店を出た。 「ねえ。お願いしますよ」すぐうしろのボックスにいるローマ法王は、一緒に飲みにきている日本人官僚のひとりに、しきりに頼みこんでいた。「上野公園をくださるよう、閣僚の誰かにとりなしてください」  官僚は苦笑した。「あそこをバチカン市国にするっていうんでしょ。同じくらいの広さだからな。だめだめ。それはあなた、あまりに厚かましいですよ。どんな小さな国に対しても国土は分割できません。どうも小さな国ほど領土への執着が大きいようだ。昨夜もグレース公妃が昭和島をくれといって、わたしの寝室へ忍んできた」 「そうとも、やることはありません」隣のボックスで盗聴していたニクソンが振り返り、大声でいった。「わが国の八百五十万人が、今も相模《さがみ》湾の沖で千二百隻の船に乗って入国させて貰《もら》えるのを待っているんですぞ。領土を寄越《よこ》せなどとは、あまりに神を恐れぬ欲深さです」 「その船の半数では、殺しあいがはじまっている」酔っぱらったキッシンジャーが、泣き声でいった。「それを思うと、とてもこんなところで飲んでいられる気分ではない。しかし飲まずにはいられないのです。飲む以外にすることがない。毎晩ホテルと西銀座を往復する以外日課がないとは、なんとなさけない、なさけない」わあわあ泣きはじめた。 「泣くな泣くな。そのかわり、いいこともあった」と、ニクソンがなぐさめた。「黒人をひとりも船に乗せなかったのはお手柄だ」 「あちこちで海戦がはじまってるそうだぜ」と、古賀がささやいた。「食糧の奪いあいだ。いちばんひどいのは室戸岬《むろとみさき》南方の海上で入国許可を待っていたスエーデン、ノルウェー、デンマークの船の連中で、ほとんど共倒れになったらしい」 「バイキングの子孫同士で争ったわけだな」おれは頷《うなず》いた。「北海道の方はどうなんだ。カラフトやカムチャッカの方から、スラヴやツングースがなだれこんできたらしいが」  おれは社会部の記者だが彼は政治部なので、そういった情報には詳しく、キャッチするのも早い。 「北部方面隊と第2航空団が出動してやっつけてる。皆殺しだ」古賀はそういった。「殺戮《さつりく》にはアイヌも手を貸してる」  チークのドアを押してトム・ジョーンズが入ってきた。黒い制服のドア・ボーイが邪険《じゃけん》に胸を押しとどめた。 「もう、満員です」 「ひとりくらい、なんとかなるだろう」 「駄目です。立って飲んでる人もいるくらいですから」  ボーイが指さした壁ぎわでは、窮屈そうに肩をすくめたローレンス・オリヴィエとピエール・カルダンが立ったままでブランデー・グラスを持っていた。 「入れてくれたら、歌ってやるぜ」と、トム・ジョーンズがいった。 「いえ、結構です。シナトラ一家がいますし、ビートルズの四人も揃《そろ》ってますから」  トム・ジョーンズは肩をすくめて出て行った。 「いろんなやつがくるな」と、古賀はいった。「来ないやつがいないみたいだ。もうじきゴドーまでやってくるぞ」 「ゴドーじゃなくて、後藤が来たぜ」おれはドアの方へ顎《あご》をしゃくった。  科学部記者の後藤が眼をぎらぎら光らせ、人混みをかきわけておれたちの方へやってきた。  この「クラブ・ミルト」は、もともとわれわれ新聞記者の溜《たま》り場だったから、どんなに店が混んでいる時でも門前払いをくわされるようなことはない。もともと、日本に難を逃れてきた外国人たちがこの店に集まるようになったのも、彼らがことばの不自由さから情報不足に陥り、この「クラブ・ミルト」へ来ればわれわれから新しいニュースを得て餓えを満たすことができるためである。現在のこの店の空前の盛況は、いわばわれわれ新聞記者のお蔭《かげ》なのだ。 「おい。今、そこのポニー・ビルの裏通りの暗いところに、エリザベス・テイラーが立っていたぞ」眼を細めて後藤がいった。  おれは後藤のために古賀との間へ空間を作ってやりながら言った。「ついに彼女も街頭に立ちはじめたか。もうパトロンはいないし、ドルは値打ちがないからな」 「悪い日本人にだまされ、全財産巻きあげられたんだろう。外人と見ると弱味につけこんで、寄ってたかって裸にしちまう。まったく日本人ってのは血も涙もない人種だな」 「おれ、行こうかな」古賀が腰を浮かした。「ひと晩いくらだと言ってた」 「よせよせ。あんなデブ」 「おれ、デブが好きなんだよ」 「もっといいのがいくらでも来てるよ。昨夜は面白かったぞ。学芸の山ちゃんと一緒に乱交パーティに行ってきたんだ。オードリイ・ヘプバーンやクラウディア・カルディナーレや、ソフィア・ローレンが来ていた。ベベもいたぞ。おれはカトリーヌ・ドヌーヴとロミー・シュナイダーと、それからええと、あとは誰を抱いたっけ」  がたん、と音を立てて古賀が立ちあがった。「どうしておれを呼んでくれなかった」おろおろ声になっていた。「おれ、ロミーのファンなんだよ」 「いつだって会えるさ。そんなことはどうでもいい」おれは後藤に訊《たず》ねた。「どうだったんだ。田所《たどころ》博士の記者会見があったんだろ」 「ああ。さっき終ったところだ」おしぼりで顔を拭《ぬぐ》いながら、後藤はうなずいた。 「こいつ、ロミーを抱きやがった」古賀がすすり泣きはじめた。  古賀にかまわず、後藤は喋りはじめた。「田所さんは、ぐでんぐでんに酔っぱらっていて、何を言ってるのかよくわからなかったがね。それでも、だいたいのところは理解できたよ」  タドコロという名前に、周囲の外人たちが聞き耳を立てはじめた。後藤の喋ることを外人たちに小声で通訳してやっている日本人もいる。 「ずっと以前から全地球的に大気中の炭酸ガスの量が増えはじめていたことは知っているだろう。あれで北極と南極の氷が溶けはじめ、徐々に海面がふくれあがってきて、世界中の地表を浸しはじめた。と同時に、以前から沸騰《ふっとう》しはじめていた太平洋の下のマントルが、さらに沸騰した。日本列島の地底のマントル対流は、太平洋からアジア大陸の下へもぐりこんでいる。これを大洋底マントルというのだが、これが沸騰したままで日本列島の下へもぐりこんできて、アジア大陸の地底から日本列島の下までのびてきている大陸底マントルと衝突した。そこで」次第に田所博士がのりうつったような口調になり、後藤が唾《つば》をとばしはじめた。「沸騰したマントルの一部は、日本の地底にある大洋底マントルと大陸底マントルの交差点でおしあげられるような形になって地表へ噴出した。三年前、富士山、浅間《あさま》山、三原《みはら》山、天城《あまぎ》山、大室《おおむろ》山、箱根《はこね》山、桜《さくら》島、三宅《みやけ》島、その他休火山と活火山とを問わず日本中の火山が順に噴火したのはこのためだ。ところがそれだけじゃおさまらなかった。マントルは海面がふくれあがる速度と比例して徐々に日本列島全体を押しあげ、と同時に、日本海底の海盆を破壊し、日本列島の地底及び周辺のモホロビチッチ不連続面をばらばらにし、以前から年間四センチメートルの速度で日本列島へ向けて移動していた速度を急激にスピード・アップした」後藤は今や大声でわめき散らしていた。  店内の客はいっせいに後藤を見つめ、茫然《ぼうぜん》としている。 「日本はそのマントルの大波にさからえず、アジア大陸の方へ押しやられ、ついに、すでに沈下していた中国の、大陸地塊の上へざざざざ、ざばあっ、と」後藤はグラスを散乱させてカウンターにとび乗った。「こういう具合に、乗りあげてしまったのだ」 「なんとまあ」おれはぶったまげて叫んだ。「それじゃ日本は今、地理的にはもとの場所にあるのじゃないのか」 「ややこしい言い方をするな。地理的にといったって、今じゃどんな世界地図を書いたところで海のまん中に日本列島があるだけなんだぜ」と、古賀がいった。「そりゃまあ、厳密に言えばチベットなどの高原もあるが」 「じゃ、今、日本は中国大陸の上に乗っかっているのか。どの辺だ。華北《かほく》平原のあたりか」 「しっ。でかい声を出すな」自分が大声でわめいたくせに、後藤は今さらのようにあわてておれを制し、店内を見わたした。「中国の連中が来てるんじゃないか」 「いや、さっきちょっと顔を見せただけだよ」 「ソウタ。ソレ、ヤツラニ教エテハイケナイアル」いちばん遠くのボックスで蒋介石がおどりあがった。「ヤツラ、領土権ヲ主張スルアルゾ」  蒋介石とは反対側のいちばん隅のボックスで、金日成《きんにっせい》がおどりあがった。「ニポン、シズマナイ。哀号《あいごう》、チョセン、ナゼシズンダカ。ワタシ不公平ミトメナイヨ」 「朝鮮半島だって中国大陸地塊の上にある。だから沈んだのです」と後藤が説明した。 「ソレナラコッチモ、領土権主張スル。セメテ県ヲヒトツモラウ。岩手県モラウ」 「いちばん広い県だぞ」 「人口密度がいちばん低い県だ」 「前から狙《ねら》ってやがったな」 「あんなところをとられてたまるものか」  周囲にいた朴正煕《ぼくせいき》とスハルトとグエン・バン・チューとロン・ノルが、ボックス席の凭《もた》れを乗り越えて、いっせいに金日成につかみかかった。  全員が騒ぎはじめた。 「やめてください。やめてください」マネージャーが声を嗄《か》らした。「国家の元首ともあろうかたがたが、何という乱暴な振舞いを」 「毎晩のことで、奴《やっこ》さんも大変だな」と、後藤がいった。 「たいして珍しい事件じゃないが、今の騒ぎをちょっと社へ報告しとくよ」古賀が立ちあがった。 「カコミ記事ぐらいにはなるだろう」彼はカウンターの端で、社へ電話をかけはじめた。 「そちらのかた、もう少しお詰め願います。すみません」と、マネージャーが補助椅子を運びながら叫んだ。「予約席ですので」  レーニエ三世が汗を拭いながら補助椅子に掛けた。  顔見知りなので、おれは声をかけた。「いかがでした。都知事との会見は」  彼はかぶりを振った。「どうしても賭博《とばく》場を開くのは許可できないと言ったよ。いやはや、日本のような文化国家の首都が公営賭博を廃止しているとは知らなかった。まったくひどいところだ。公営賭博を廃止したりしたら、わがモナコ公国などはどうなったと思う。公営賭博がなぜいかんのだ」彼は次第に激しはじめた。「賭博のために堕落するような市民のいる都会なんか、都市じゃない。都市やめちまえ」今度は泣き出した。「わたしの政治理念が崩れた」  古賀が席に戻ってきた。「ヒューズがとんでる」  おれはあたりを見まわした。「だって、明かりがついてるじゃないか」 「そうじゃない。入国許可を得られなかったハワード・ヒューズが、密入国しようとして自家用機で東京上空を飛んでるんだ。高射砲で撃墜したものかどうか、今、第一師団で検討している」  壁ぎわのフォードが、ぼそりとつぶやいた。「奴さん、税関の役人に賄賂《わいろ》をケチったな」  カウンターのいちばん端にいたディーン・マーチンがいった。「ダルマをボトルで一本くれ」  バーテンがかぶりを振った。「だめだよ。あんたアル中だろ。それにもう、ボトルじゃ売らないんだ。このクラブだって、なかば配給制なんだ。ウィスキーは残り少いんでね。ほしけりゃチケットを買い集めてきなよ」 「十万ドル出そう」 「だめだめ」 「十五万ドル」 「だめだめ」 「なんとか言ってやってくれよ、ボス」と、ディーン・マーチンが泣き顔でニクソンに声をかけた。  ニクソンは肩をすくめた。「もうドルを防衛する必要はなくなったんだ」彼はいくぶん浮きうきしていた。 「まったく、こう物価が値上りしたのでは、かなわんな」後藤がぼやいた。「今日、ざるそばを食ったら三万円とられた」 「カレーライスが五万円だ。大衆食堂でビフテキがいくらすると思う。二十万だぜ」古賀がいった。「安いのは外人の女だけだ」 「宝石もずいぶん値下りしたぜ。国宝級の宝石がずいぶん持ち込まれたからな」おれは左手の薬指にはめた三カラットのダイヤの指輪を見せた。「いくらだと思う。七千八百円だぜ。オナシスが持ちこんだやつだ」 「いくら物価が高いといっても、日本人は幸せだよ。いわば貴族階級だものな。おれのいる高円寺のアパートの向かいのスナックじゃ、アラン・ドロンがボーイをやってる」 「そう言えば江古田《えごた》の八百屋でチャールズ・ブロンソンが大根を運んでいた」 「夕刊を読んだか。京都でアンソニー・パーキンスが京都女子大の生徒をモーテルへつれこんだ。出てきたところを袋叩きにされて、一か月の重傷だ」 「ふうん。じゃあ、国外追放だな」 「もちろんだ」 「日本人の女なんて、現金なもんだな。最初は外国の著名人を見て騒いだが、今じゃ見向きもしない。始めのうちは外国の有名俳優を端役《はやく》で使っていた映画やテレビも、国内タレントの出演拒否や政府の圧力がこわくて、二か月前からまったく使わなくなってしまったものな」 「でも、エロダクションじゃ、まだ使ってるぜ。この間ショーン・コネリーとボンド・ガール総出演のポルノを見た」 「そりゃまあ、外人の人件費は安いからな。でも、本来の職業で稼《かせ》いでる連中はまだしあわせさ。たいていはルンペンで、持ちこんできた財産だけで食いつないでいる。奴さんなどは」後藤が顎でカルダンを指した。「デザインという特殊技能で食えるからいい」 「コールドウェルとモラヴィアが、うちの社に、コラムを書かせてくれと言ってきたそうだ」 「週刊誌じゃ、カポーティやメイラーに色ページの雑文をやらせてる。それからアーサー・ミラーはポルノ映画の脚本を書いてるそうだ。ボーヴォアールも中間小説雑誌にすごいエロを書きはじめた」  おれたちはくすくす笑いながら喋り続けた。物価高や酒不足はこたえるが、記事や、酒の肴にする話題にこと欠かなくなったのはまことにありがたい。  ステージで、リヒテルとケンプが Fly me to the moon の連弾をやりはじめた時、血相を変えたブレジネフがボーイの制止もきかずに店へとびこんできて、ニクソンの横のボックスにいたコスイギンに何ごとか耳打ちした。  コスイギンが、さっと立ちあがってニクソンを睨《にら》みつけた。「月面のソ連基地を、アメリカの宇宙飛行士たちが襲って占領したという報告が入った。あなたの命令でやったことか」  ニクソンは顔色を変えた。「わたしは知りません。そんな命令、出せる筈《はず》がないでしょう。通信はずっと途絶えてるんだ。地球がこんなことになった以上、月面にいる基地設営班はこっちへ戻ってこられる見込みが永久になくなったんです。だからわたしたちはアメリカから避難する直前、彼らと交信して全員に因果を含めておきました。彼らの行動は、もうわたしとは無関係です」 「無責任なことをいうな。衛星船経由でいくらでも司令できた筈だ。だいいち、宇宙船が地球へ戻ってくることだって、できる筈だ」 「どこへ着陸するっていうんですか。日本はどこもかも人間でいっぱいで、そんな場所はありません。これは日本の常識です。あなたの方は、どうやって戻ってくるつもりだったのです」 「伊勢《いせ》湾へ着水するよう、いってあった」 「アメリカの宇宙船には、着水装置などという原始的なものはない」 「原始的とは何ごとだ。わかったぞ。連中、命惜しさに、着水装置のあるソ連の宇宙船を奪おうとしたな。責任をとれ」 「無関係だと言った筈だ」 「卑劣な」コスイギンがニクソンにおどりかかった。  制止しようとしたキッシンジャーに、ブレジネフがとびついた。激しい揉《も》みあいになった。今度は、もう誰もあまり驚かず、また始まったかという顔つきでぼんやり眺めている。 「アメリカもソ連も、残る領土は月面しかないというわけか。だけど月面の取りあいをしたって、どうせ今後何十年か、行けっこないのにな」後藤が溜息をついた。「日本が宇宙基地を作り、宇宙船をとばすのは、まだまだずっと先だ」 「でも、外国の宇宙科学者たちも、少数は日本へ来てるんだろ」 「ごく少数だ。科学者なんて貧乏だからな。だいいち日本は今、宇宙どころか、食糧があと何年続くのか瀬戸際なんだぜ」 「いよいよ人間を食うことになるか」  おれがげっそりしてそうつぶやいた時、バーテンが首をカウンターの向こうから突き出して、おれたちにささやきかけた。「今、ラジオで聞いたんだけど、若狭《わかさ》湾からドイツ軍が上陸してきたそうですぜ」  おれたちは顔を見あわせた。 「今度はドイツ軍か」 「東ドイツならたいしたことはないが、西ドイツの軍隊だと、ちょっと厄介《やっかい》だぞ。まあ、舞鶴《まいづる》に地方隊と第三護衛艦隊がいるが」古賀は立ちあがり、おれに訊ねた。「ところでこのニュースは政治部かね、社会部かね」 「両方だろうがね」と、おれはいった。「でもおれは非番だから」 「そうか。じゃ、おれはちょっと社へ行ってくる」古賀は店を出て行った。 「今で約五億人だ」と、後藤はいった。「こんな小さな島に、それ以上入れるものか」 「でも、沈没前の世界の人口なら、淡路《あわじ》島にぎっしり詰めこんだら何とかおさまるって話だったぜ」 「それは全員が直立している場合だ。無茶を言うな。それに人間だけじゃない。北海道にはトドの大群やシロクマがやってきた。九州にはネズミの大群が上陸した。その上日本全国どこもかしこも鳥だらけだ。渡り鳥だけじゃない。ハゲタカの大群までやってきている。農作物の被害が大変だ」 「トドは食えるだろう。鳥だって食えるのがいる」 「そりゃあまあ、餓えればネズミだって食うだろうがね。だけど五億人だぜ。何年食いつなげると思う。あちこちで食糧の奪いあいが起ってる。昨日も罐詰《かんづめ》を買い占めた商社が焼き打ちされた」 「それに水温の急変で、魚が大量に死んだからな。魚を食う水鳥まで餓死している」 「おかげでこれ以上、汚染魚を食わなくてもよくなったが」後藤はじっとおれの顔を見つめた。 「お前の顔も、ずいぶんひどくなったなあ」  そういう後藤の顔だって、吹出物で満艦飾である。「汚染されてるのは魚だけじゃないものな。今じゃ食いもの全部にいろんなものが含まれている」 「ひどい。まったく日本はひどい」ヒースが立ちあがってわめいた。酔っぱらっていた。「こんな国は、国連が統治すべきだ」 「何言ってやがる」ローマ法王と飲んでいた日本人官僚が立ちあがり、怒鳴り返した。「そんなことされてたまるか。だいいち、今じゃ国連加盟国は日本だけじゃないか」  マネージャーがステージの方へ行き、リヒテルとケンプに何ごとか耳打ちした。ふたりはあわてて曲を「十三夜《じゅうさんや》」に変えた。日本の曲をやれと命じられたのだろう。 「毎朝」の政治部記者の上野がやってきて、古賀のいた席に腰をかけた。「えらいことだ。あっちこっちで密入国が始まってる。撃ちあいがあって、海岸はどこもかしこも血の海だ。自衛隊が、こんなことで役に立つとは思わなかった。自衛隊はまったく、よく頑張ってるよ」 「ほら、また自衛隊のPRが始まった」後藤がくすくす笑った。 「自衛隊のPRをして何が悪い。さんざお世話になっておきながら」上野はむっとして、水割りをがぶりと飲んだ。「今日も楽しく飲めるのも、兵隊さんのおかげです」  イスラエルのシャザール大統領が、拳銃《けんじゅう》を持ってとび込んできた。「ユダヤ商会が次つぎと焼き打ちされている。ここにアラヴのやつはいるか。いたら前に出ろ。片っ端からぶち殺してやるぞ」  レバノン、サウジアラビア、ヨルダン・ハシムなどアラヴ諸国の国王や大統領がいっせいに立ちあがり、わっとシャザールにおどりかかって、たちまち拳銃をとりあげてしまった。はげしい揉みあいになった。 「ユダヤ人が米を買い占めたからだ」 「こいつめ。はなせ。はなせ」 「テルアビブのことは忘れていないぞ」  店内三か所での乱闘は、いつまでも続いた。「今夜はいつもより、だいぶ騒がしい」後藤が眉をひそめた。「だんだんひどくなるな」  田所博士がぐでんぐでんに酔っぱらって入ってきた。ネクタイをだらしなくゆるめ、腕までくりあげたワイシャツは埃《ほこり》に黒く汚れていて、髪はばさばさ、顔一面を油でぎとぎとに光らせ、片手にはコーヒーの罐を持っている。 「田所博士」後藤が驚いて立ちあがり、田所博士に駆《か》け寄った。「どうしたのです」 「諸君。日本はもうすぐ終りだ」田所博士が大声で叫んだ。「もう政治機密にする必要はない。地球は、いや、人類はおしまいだ」ぐだぐだぐだ、と田所博士は床にくずおれ、さらに何ごとかをぶつぶつとつぶやいた。  店内の客が、いさかいを中断して博士の周囲に集ってきた。 「博士。博士。はっきりおっしゃってください。その後何か、新しい発見があったのですね。新事実の発見が」 「あった」後藤の問いに、博士は答えた。「わたしは、気団の動きとマントル対流の相似性に気がついたのだ。その結果、日本列島が中国大陸に乗りあげたのは、ほんの一時的な、過渡的現象に過ぎないことがわかったのだ。諸君、今のうちに酒を飲み、小便をしておいた方がよろしい。太平洋側のマントル塊の対流相が急激に変化しておる。つまり太平洋からの圧力が減少するのだ。するとどうなるか。大陸地塊が太平洋めがけて大きく傾くのだ。すると、その上に乗っかっておる日本列島はどうなると思う。当然傾いて、ずるずるっと太平洋の中へすべりこんでしまうのだ」 「浮きませんか」 「馬鹿《ばか》。浮くものか」  各国首相が騒ぎはじめた。 「それではまるでシーソー・ゲームではないか」 「これはブランコですか」 「その通り」田所博士はげらげら笑った。「大昔から地球上の陸地なんてものは、常にシーソー・ゲームやブランコをしているような状態であり、その上に住んでいる人類なんてものは、本来ならば、これほど種族としての寿命を保てた筈のないあやふやな存在だったのだ。はい。これでお仕舞い」ばったりと俯伏せに倒れた。  後藤が博士を抱き起こした。 「死んでいる」  おれは立ちあがり、カウンターの隅へ行って受話器をとりあげた。  その時、店全体がぐらりと傾いた。カウンターにいた連中が将棋倒しになっておれの方へ雪崩《なだ》れてきた。店のあっちの端にいた連中が、テーブルやソファを抱きかかえたまま、ずるずるとこっちへ滑ってきた。 「OH」 「曖呀《あいや》」 「HELP」 「助けてくれ」  客全員が、五十度ほど傾いた店の片側の壁に押しつけられた。おれはカウンターにしがみついた。グランド・ピアノが走り出し、カウンターをぶち壊し、おれを勢いよく壁ぎわまで押しやり、ぎゃろぎゃろんという音を立てておれの腰骨を粉ごなに打ち砕いた。  その時、店内の電灯がいっせいに消え、ただ一か所の入口から轟々《ごうごう》たる水音と共に、破裂するような勢いで海水が流れこんできた。  *原典「日本沈没」のパロディ化を快諾下さった小松左京氏に厚く御礼申しあげます。(作者) 裏小倉(原典付き)  *本編は、筒井康隆氏の作品「裏小倉」に、小倉百人一首を付録として収録したパピレスオリジナル版です。線で区切られた上部が原典、下部が筒井氏のパロディですので、読み比べてお楽しみください。(編集部)    秋《あき》の田のかりほ(お)の庵《いお》の苫《とま》をあらみ    わがころも手《で》は露《つゆ》にぬれつつ    天智天皇   ————————————————————————————————    あきのたの かれきのいわの うまをはやめ    あかごのむれは かゆにむれつつ  〈通釈〉秋の田の枯木の岩でできた馬の足があまり早いので、赤ん坊の群れが粥にむらがっている。   ————————————————————————————————    春過ぎて夏来にけらし白妙《しろたえ》の    衣《ころも》干すてふ天《あま》の香具山《かぐやま》    持統天皇   ————————————————————————————————    はれすぎて なつぼけらしく うろたえの    こどもほすてす かまをとぐやま  〈通釈〉天気がよすぎて夏ぼけのようだ。うろたえた子供やホステスが山の上で釜を磨《と》いでいる。のどかだなあ。   ————————————————————————————————    足引《あしひき》の山どりの尾のしだり尾の    ながながし夜《よ》をひとりかもねむ(ん)    柿本人麿   ————————————————————————————————    あしびきの やまでらのこの ひだりての    ながながしてを ひとがかむなり  〈通釈〉「あしびきの」は山の枕詞。山寺の子の左手が長すぎるので、ひとが噛みちぎった。おもしろいことである。   ————————————————————————————————    田子《たご》の浦にうちいでて見れば白妙《しろたえ》の    富士の高根《たかね》に雪はふりつつ    山部赤人   ————————————————————————————————    あごのうらに くちいでてくれば しろいはの    さじのたがねに つきはかけつつ  〈通釈〉顎の裏に口ができ、白い歯がのぞいている。その歯でスプーン兼用の鏨を噛んだら、突然月が欠けた。   ————————————————————————————————    おく山にもみぢふみわけなく鹿《しか》の    声きく時ぞ秋はかなしき    猿丸太夫   ————————————————————————————————    おくさまに いぼじふみつけ なくしもの    よくきくときぞ あすはふろしき  〈通釈〉しもの病気で泣いている奥様の疣痔を踏んづけてあげたらよくきいたので、いよいよ明日は風呂敷をかぶせよう。   ————————————————————————————————    鵲《かささぎ》のわたせる橋におく霜《しも》の    白きを見れば夜《よ》ぞふけにける    中納言家持   ————————————————————————————————    がさがさの はだせるわれに ひくひもの    しろめをみれば すぐふけにける  〈通釈〉わたしのひも(情夫)が、象皮病になったわたしに気づいて眼を剥いた。わたしはすぐに逃げた。   ————————————————————————————————    天《あま》の原ふりさけ見れば春日《かすが》なる    三笠《みかさ》の山に出《い》でし月かも    安部仲麿   ————————————————————————————————    あしとはら やつざきみれば かすかなる    ふかさのやまに いけにえをかむ  〈通釈〉八つ裂きにされた足や腹部を見たので、わたしもやや奥深い山に戻り生け贄にかぶりついた。   ————————————————————————————————    我が庵《いお》は都のたつみしかぞすむ    世を宇治山《うじやま》と人はいふなり    喜撰法師   ————————————————————————————————    わかいこは みぬこのたちみ したをかむ    よろうじゃないかと ひとはくるなり  〈通釈〉店に若い娘を置くと、まだ見ていない子らが立ち見をしたり舌を噛んだりするし、寄ろうじゃないかと人が来るのでうれしい。   ————————————————————————————————    花の色はうつりにけりないたづらに    わが身世にふるながめせしまに    小野小町   ————————————————————————————————    はなのさきは くずれにけりな いたずらを    ばかみたように ならべせしまに  〈通釈〉馬鹿みたいにいたずらばかりしているうち、とうとう鼻の頭が崩れてしまった。   ————————————————————————————————    これやこの往《ゆ》くもかへ(え)るも別れては    知るも知らぬも逢坂《おうさか》の関    蝉丸   ————————————————————————————————    これやこの ゆくもかえるも これやこの    しるもしらぬも ゆくもかえるも  〈通釈〉これがまあ、行く人も帰る人も、なんとまあ、知った人も知らない人も、行ったり帰ったりするものであるなあ。   ————————————————————————————————    わたの原八十島《やそしま》かけて漕《こ》ぎ出《い》でぬと    人にはつげよあまのつり舟    参議篁   ————————————————————————————————    はらのわた やっかいかけて こぎたないと    ひとにはみせよ たまのそりあと  〈通釈〉腸《はらわた》を見せると迷惑だし小汚いから、人にはそう言って、睾丸の剃り落した痕を見せなさい。   ————————————————————————————————    天津風《あまつかぜ》雲の通い路《じ》吹きとぢよ    を(お)とめのすがたしばしとどめむ    僧但遍昭   ————————————————————————————————    あまつかぜ くものかよいじ ふきとべよ    すずめのすがた くちばしとどめん  〈通釈〉空吹く風に蜘蛛《くも》の巣よ吹きとばされておくれ。雀の姿を嘴《くちばし》だけでもとどめておきたいから。   ————————————————————————————————    つくばねの峰《みね》よりおつるみなの川    恋ぞつもりて淵《ふち》となりぬる    陽成院   ————————————————————————————————    つくはねの やねよりおつる みずのあわ    こいにあたりて ぶちとなりぬる  〈通釈〉羽根つきをしていたら屋根にあたり、屋根から汚い水が泡になって落ち、下にいた鯉がまだらになってしまった。   ————————————————————————————————    陸奥《みちのく》のしのぶもぢすり誰《たれ》ゆゑ(え)に    乱れそめにしわれならなくに    河原左大臣   ————————————————————————————————    はちのすの しのぎをけずり あれゆえに    みだれすぎても われなくならない  〈通釈〉蜂の巣で蜂が激しく戦っているように、乱れに乱れたあれをしたところで、自分は死なない。   ————————————————————————————————    君がため春の野に出《い》でて若菜つむ    我が衣手《ころもで》に雪はふりつつ    光孝天皇   ————————————————————————————————    きみをたべ しろみをすてて さかなつる    わがはりぼての うきはうきつつ  〈通釈〉卵の白身を捨てて黄味ばかりむさぼり食いながら魚を釣っていると、わたしのはりぼての浮きは浮いたままである。のどかだなあ。   ————————————————————————————————    立ち別れいなばの山の峰《みね》に生《お》ふ(う)る    まつとしきかば今かへ(え)り来む    中納言行平   ————————————————————————————————    たちぐされ いなばのうさぎ みなにげる    まつのきのかば いまかかえこむ  〈通釈〉立ち腐れを見て驚いた因幡の白兎の群れが逃げ出した。それを待っていた松の木の上の河馬が、全部かかえこんだ。   ————————————————————————————————    千早ぶる神代《かみよ》もきかず龍田川《たつたがわ》    からくれなゐ(い)に水くくるとは    在原業平朝臣   ————————————————————————————————    ちはやぶる かみゆいいかず かったかみ    からくれないに みなそめるとは  〈通釈〉「ちはやぶる」は髪の枕詞。髪結いにも行かず自分で刈った髪をまっ赤に染めるとはなんということだ。   ————————————————————————————————    住《すみ》の江の岸による波よるさへ(え)や    夢の通い路《じ》人目よくらむ    藤原敏行朝臣   ————————————————————————————————    うみのべの きしによるあみ とるさえら    ふねのかよいじ ひとのよくぶか  〈通釈〉漁師が海岸で網を寄せ、さえらを漁っている。船が通るところを見るたび、人間とは欲深いものであるなあと思う。   ————————————————————————————————    難波潟《なにわがた》みじかき芦のふしの間《ま》も    あは(わ)でこの世を過《す》ぐしてよとや    伊勢   ————————————————————————————————    おんながた みじかいあしの ふしあなも    あわをぬれてで すぐつかみどり  〈通釈〉女形の短い足の節穴でさえも、濡れ手で粟をすぐつかみ取りできるようになっている。おそろしいものだなあ。   ————————————————————————————————    わびぬれば今はた同じ難波《なにわ》なる    身をつくしても逢《あ》わむ(ん)とぞ思ふ    元良親王   ————————————————————————————————    わびぬれど いまでもおなじ なにになる    みをつくしても あわんとおもうぞ  〈通釈〉いくらあやまってもだめだ。今でも許してはやらない。あやまって何になる。いくら身を捨ててあやまっても、お前には会わんと思っているのだ。   ————————————————————————————————    今来《こ》む(ん)といひ(い)しばかりの長月《ながつき》の    有明の月を待ち出《い》でつるかな    素性法師   ————————————————————————————————    いまこむと いいしばかりに こぶつきの    としあけのつきを まちがえるかな  〈通釈〉今は混雑してますよと言ったばかりに、こぶつきの女と一緒に年が明けた月を間違える破目になってしまった。   ————————————————————————————————    吹くからに秋の草木のしを(お)るれば    むべ山風《やまかぜ》をあらしといふ(う)らむ    文屋康秀   ————————————————————————————————    ひくからに あきのくしゃみの とめどなく    むべはなかぜを つらしというらむ  〈通釈〉秋に風邪をひいたらくしゃみがとめどなく出た。なるほど鼻風邪がつらいというのはこのことか。   ————————————————————————————————    月見ればちぢにものこそ悲しけれ    わが身ひとつの秋にはあらねど    大江千里   ————————————————————————————————    つきみれば ちぢにものこそ ばらしけれ    おおかみひとつの ききにはあらねど  〈通釈〉月を見るたびに、滅茶苦茶にものを破壊してしまう。狼男だけの危機ではないのだけれど。   ————————————————————————————————    このたびはぬさも取りあへ(え)ず手向山《たむけやま》    紅葉《もみじ》のにしき神のまにまに    菅家   ————————————————————————————————    このたびは とるもとりあえず かけつけた    あなたのやさしさ なみのまにまに  〈通釈〉このたびは、あなたの屋敷が波の間に流されて行くというので、とるものもとりあえず駆けつけました。   ————————————————————————————————    名にしおは(わ)ば逢坂山《おうさかやま》のさねかづら    人に知られでくるよしもがな    三条右大臣   ————————————————————————————————    なにしおわば まらさねがわの さねかずら    まらにすかれて くるしむがよい  〈通釈〉まらさね川のさねかずらが本当に評判通りのものであれば、まらに好かれて勝手に苦しんだらよかろう。   ————————————————————————————————    小倉山《おぐらやま》峰のもみぢ葉《ば》心あらば    今ひとたびのみゆき待たなむ(ん)    貞信公   ————————————————————————————————    もぐらやま みねのもぐらが ころがれば    いまひとたびも みるきおこらん  〈通釈〉もぐら山の峰にいるもぐらがころげ落ちた。もう二度と見る気はしない。   ————————————————————————————————    みかの原わきて流《なが》るる泉川《いずみがわ》    いつみきとてか恋しかるらむ(ん)    中納言兼輔   ————————————————————————————————    ふけのさら さきてあばるる いつみかれ    いつみかとれか ひきらかるめん  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    山里《やまざと》は冬ぞさびしさまさりける    人めも草もかれぬと思へ(え)ば    源宗千朝臣   ————————————————————————————————    やまざとは かねのちからぞ まさりける    ひとめもうわさも へいきとおもえば  〈通釈〉田舎の選挙区はマスコミの影響も少いので、金だけがものをいうなあ。   ————————————————————————————————    心あてに折らばや折らむ初霜《はつしも》の    おきまどは(わ)せる白菊《しらぎく》の花    凡河内躬恒   ————————————————————————————————    ところあてに おらばやおらん ひっこしの    おれまどわせる しらんまちかな  〈通釈〉引越しした友人が家にいるかいないか、書いてもらった住所をあてに来たものの、知らん町なので迷ってしまう。   ————————————————————————————————    有明《ありあけ》のつれなく見えし別れより    暁《あかつき》ばかりうきものはなし    壬生忠岑   ————————————————————————————————    てつやあけの きいろくみえし つかれより    ばかつきばかり よきものはなし  〈通釈〉徹夜マージャンの疲れで太陽が黄色く見えたあの日から、馬鹿つきほどよいものはないなあと思うようになった。   ————————————————————————————————    朝ぼらけ有明《ありあけ》の月と見るまでに    吉野《よしの》の里に降れる白雪《しらゆき》    坂上是則   ————————————————————————————————    あかだらけ しにかけのときと みるまでに    としのわからぬ ふれるしらくも  〈通釈〉死にかけているのではないかと思うぐらい垢だらけのその男は、年齢のわからない、しらくも頭の気ちがいであった。   ————————————————————————————————    山川《やまがわ》に風のかけたるしがらみは    流れもあへ(え)ぬもみぢなりけり    春道列樹   ————————————————————————————————    やたけたに かねをかけたる ほねがらみ    いのちもあえぬ さいごなりけり  〈通釈〉豪遊した末に梅毒となり、あえない最期をとげたことである。   ————————————————————————————————    久方《ひさかた》の光のどけき春の日に    しづ心なく花の散るらむ(ん)    紀友則   ————————————————————————————————    ひさかたの ひかりのどめき さるのめに    しずこころなく やねおちるらん  〈通釈〉「ひさかたの」はひかりの枕詞。ひかり号の轟音で、新幹線沿いの家の屋根が落ちる光景は、猿の目にはなんと落ちつかぬことであろうかと映じた。   ————————————————————————————————    誰《たれ》をかを知る人にせむ(ん)高砂《たかさご》の    松もむかしの友ならなくに    藤原興風   ————————————————————————————————    だれをかも しるひとにせん みなしごの    さつもむかしの ともならなくに  〈通釈〉どいつを噛んでやろうか。知っている人にしようか。どうせおれは孤児で、警察にも昔なじみはいないのだから。   ————————————————————————————————    人はいさ心も知らずふるさとは    花ぞむかしの香《か》ににほひ(おい)ける    紀貫之   ————————————————————————————————    ひとはいや こころもしらず ふるざるは    なかぞむかしの かにせおいける  〈通釈〉人間は気ごころが知れないのでいやだと言っていた古猿が、昔なじみの蟹を背負っていた。   ————————————————————————————————    夏の夜《よ》はまだよひ(い)ながら明けぬるを    雲のいづこに月やどるらむ(ん)    清原深養父   ————————————————————————————————    さつのよは まだよいながら やけぬるを    きものいずこに われやどるらん  〈通釈〉気がつくと夜になっていて、警察で泊っていた。まだ酔いは醒めず、おれはやけっぱちだ。きものはどうしたのだろう。   ————————————————————————————————    白露《しろつゆ》に風の吹きしく秋の野は    つらぬきとめぬ玉ぞ散りける    文屋朝康   ————————————————————————————————    しらさねに かぜのふきしく ののはめは    つらぬきとめず たまぞちりける  〈通釈〉野原で、はめということをすると、しらさねというものの上に風が吹くので、貫通しとどめを刺さぬうちにたまがとび散ってしまった。   ————————————————————————————————    忘らるる身をば思は(わ)ず誓《ちか》ひ(い)てし    人の命のを(お)しくもあるかな    右近   ————————————————————————————————    ゆすらるる みをばおもわず かばいてし    おれのいのちの おしくもあるかな  〈通釈〉やくざに強請《ゆす》られて、その恐ろしさに思わずわが身をかばった。まだ命は惜しい。   ————————————————————————————————    浅茅生《あさぢふ》のを(お)ののしの原しのぶれど    あまりてなどか人のこひ(い)しき    参議等   ————————————————————————————————    あさじるの おののきのつら いたぶれど    あまりてながく ひとのしぬじき  〈通釈〉朝の味噌汁の中に、ひどく自分を恐れているやつがいたので、いたぶってやったけれど、あまりにも自分の手が長すぎた。そういえば今は人のよく死ぬ時期であるなあ。   ————————————————————————————————    しのぶれど色に出にけりわが恋は    ものや思ふ(う)と人の問ふ(う)まで    平兼盛   ————————————————————————————————    きすぐれど いろにまけにけり わがさけは    よもやひもだと ひとはおもわず  〈通釈〉酒に弱いので、飲むと情婦に負ける。おれがひもだとは誰も思わない。   ————————————————————————————————    恋すてふ(ちょう)わが名はまだき立ちにけり    人知れずこそ思ひ(い)そめしか    壬生忠見   ————————————————————————————————    こいすてて わがふなはまち たちにけり    あとしれずこそ おもいあさめし  〈通釈〉おれの鮒とはまち[#「はまち」に傍点]が鯉を捨てて出発し、行方がわからない。そのために朝飯が重い。   ————————————————————————————————    契《ちぎ》りきなかたみに袖《そで》をしぼりつつ    末の松山《まつやま》波こさじとは    清原元輔   ————————————————————————————————    ちぎりすて かたわのそでを しぼりつつ    すねのけつねり かみころすとは  〈通釈〉片腕をちぎり捨てて片輪にした男の、もう片方の袖をしぼりあげ、脛の毛をつねり、あげくに噛み殺すとは、なんということをするのか。   ————————————————————————————————    逢い見ての後《のち》の心にくらぶれば    昔はものを思は(わ)ざりけり    中納言敦忠   ————————————————————————————————    あいみてか のちかこころか うらぶれか    むかしかものか ほろかなかはか  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    逢ふ(う)ことの絶えてし無くばなかなかに    人をも身をも恨《うら》みざらまし    中納言朝忠   ————————————————————————————————    あのひとの たえてしなずば なかなかに    ほねをもみをも ばらばらざらまし  〈通釈〉あいつが絶対死なないのなら、かえって、骨や肉がばらばらになってしまうだろう。   ————————————————————————————————    あは(わ)れともいふ(う)べき人は思ほ(お)えで    身のいたづらになりぬべきかな    謙徳公   ————————————————————————————————    あわれとも いうべきこじき いぬほえて    ひのいたずらに もえるべきかな  〈通釈〉哀れな乞食は犬に吠えられ、火遊びの犠牲になって燃えてしまうべきだ。   ————————————————————————————————    由良《ゆら》のとをわたる舟人かぢをたえ    行くゑ(え)も知らぬ恋の道かな    曾根好忠   ————————————————————————————————    うらのとを あけるふなびと かじをたえ    かきねもしらぬ まわりみちかな  〈通釈〉裏の戸をあけて入ってきた舟びとは、かじをとりちがえ道にまよい、垣根を乗り越え、たいへんなまわり道をして行ってしまった。   ————————————————————————————————    八重むぐらしげれる宿のさびしきに    人こそ見えぬ秋は来《き》にけり    恵慶法師   ————————————————————————————————    はなむぐら くじれるなどの はげしきに    あとこそみえぬ あきあきしにけり  〈通釈〉はなむぐらというものをくじるなどというはげしいことをしているうち、つい跡かたもなくなったので、飽きてしまった。   ————————————————————————————————    風をいたみ岩うつ波のおのれのみ    砕《くだ》けてものを思ふ(う)ころかな    源重之   ————————————————————————————————    かたをいため のたうつものは おのれのみ    くだけてものが かんがえられない  〈通釈〉肩を痛め、のたうちまわっているのはおれひとりである。肩の骨が砕けて以来、何も考えられない。   ————————————————————————————————    御垣守御士《みかきもりえじ》のたく火の夜はもえて    昼は消えつつものをこそ思へ(え)    大中臣能宣朝臣   ————————————————————————————————    あかやもり かじのたぐいの よるはもえて    ひるももえつつ ものをこそもやせ  〈通釈〉「あかやもり」は火事の枕詞。火事の類が夜も昼も続いて、ものを全部燃やしてしまえ。   ————————————————————————————————    君がため惜しからざりし命さへ(え)    ながくもながと思ひけるかな    藤原義孝   ————————————————————————————————    きちがいめ おしからざりし いのちさえ    ながくもながと おもいやるがな  〈通釈〉気違いめ。惜しくもない命なのに、長生きしたいなどと考えていやがる。   ————————————————————————————————    かくとだにえやはいぶきのさしも草    さしも知らじな燃ゆる思ひ(い)を    藤原実方朝臣   ————————————————————————————————    かくとだめ えははいふきの さるもねら    さるもねらねら もちはべとべと  〈通釈〉絵は、描いても灰吹きのサルモネラにしかならないから駄目である。そういえばサルモネラはねらねらだし、もちはべとべとであるなあ。   ————————————————————————————————    明けぬれば暮るるものとは知りながら    なほ(お)恨めしきあさぼらけかな    藤原道信朝臣   ————————————————————————————————    さけぬれば くるしきものとは しりながら    なおさらいたい またひらきかな  〈通釈〉裂けたら苦しいということはよく知っているので股を開くと尚さら痛い。   ————————————————————————————————    歎《なげ》きつつひとりぬる夜《よ》の明くる間《ま》は    いかに久しきものとかは知る    右大将道綱母   ————————————————————————————————    あがきつつ ひとりするよの あくるひは    いかにもはげしく ほねとかわだけ  〈通釈〉あがきながら、ひとりでそれをした夜の次の日は、骨と皮だけになってしまうので、いかにはげしくやったかがわかるというものだ。   ————————————————————————————————    忘れじの行末《ゆくすえ》までは難《かた》ければ    今日をかぎりの命ともがな    儀同三司母   ————————————————————————————————    がすれんじの もとのこっくの かたければ    きょうをかぎりに こわすともがな  〈通釈〉ガス・レンジの元栓がかたくて開かない。今日を限りに壊してしまいたい。   ————————————————————————————————    滝の音《おと》は絶えて久しくなりぬれど    名こそ流れてなほ(お)聞こえけれ    大納言公任   ————————————————————————————————    しんおんは たえてひさしく なりぬれど    ちこそながれて てあしひくひく  〈通釈〉心音が聞こえなくなってだいぶ経つけれど、血は流れているし、手足もひくひく動いている。   ————————————————————————————————    あらざらむ(ん)この世の外《ほか》の思ひ(い)出に    今ひとたびの逢ふ(う)こともがな    和泉式部   ————————————————————————————————    あらいざらい このいえのもの もっていけ    いまひとたびも あうことはない  〈通釈〉この家のもの全部持っていけ。お前とはもう会わない。   ————————————————————————————————    めぐり合ひ(い)て見しやそれともわかぬ間《ま》に    雲がくれにし夜半《よわ》の月かな    紫式部   ————————————————————————————————    めくらがあって みてもだれとも わかぬまに    きもをつぶせし はちあわせかな  〈通釈〉めくら同士が出会い、相手が誰だかわからぬままに鉢あわせをし、肝をつぶした。   ————————————————————————————————    有馬山《ありまやま》ゐ(い)なのささ原風吹けば    いでそよ人を忘れやはする    大弐三位   ————————————————————————————————    しゃらばやま しゃばのどばしら かぜふけば    しゃべそろどぼら しゃばれしゃばるる  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    やすらは(わ)で寝なましものを小夜《さよ》更けて    傾《かたぶ》くまでの月を見しかな    赤染衛門   ————————————————————————————————    やすらかに ねていたものを ゆかさけて    かたぶくまでの やねをみしかな  〈通釈〉安らかに寝ていたのに、床が裂けたので起き、外へ出て屋根が傾くまで見ていた。   ————————————————————————————————    大江山《おおえやま》いく野の道の遠ければ    まだふみも見ず天《あま》の橋立《はしだて》    小式部内侍   ————————————————————————————————    おおぱじゃま きるのぬがすの とぼければ    まだふみもせず あかいふんどし  〈通釈〉不能。かまととの歌であろうと思われる。   ————————————————————————————————    いにしへ(え)の奈良の都《みやこ》の八重桜    今日九重《ここのえ》に匂ひ(い)ぬるかな    伊勢大輔   ————————————————————————————————    いにしえけ ならけみやこけ やけざけけ    きょうこのへんに におうげろげろ  〈通釈〉もう我慢できん。これは解釈する気にならん。勝手にやりなさい。   ————————————————————————————————    夜《よ》をこめて鳥のそら音《ね》ははかるとも    世に逢坂《おうさか》の関《せき》はゆるさじ    清少納言   ————————————————————————————————    よをつめて むりにのおとを うつすとも    まにあうかしら けっせきはゆるされじ  〈通釈〉試験の歌であろう。   ————————————————————————————————    今はただ思ひ(い)絶えなむ(ん)とばかりを    人づてならで言ふよしもがな    左京大夫道雅   ————————————————————————————————    いまはただ いまもただなら ただばかり    ただならただで ただというがな  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    朝ぼらけ宇治《うじ》の川霧《かわぎり》たえだえに    あらは(わ)れわたる瀬々《せぜ》の網代木《あじろぎ》    権中納言定頼   ————————————————————————————————    あさぼらけ せいとはいきも たえだえに    あらわれやがる せんせいのたじろぎ  〈通釈〉朝、遅刻しそうになった生徒が息もたえだえにかけつけてくるので、先生がたじろいでいるのであろう。   ————————————————————————————————    恨《うら》みわびほさぬ袖《そで》だにあるものを    恋に朽ちなむ(ん)名こそを(お)しけれ    相模   ————————————————————————————————    つらにかび ほそいうでだに とるものを    こしにくちなし はこそとしとれ   〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    もろともにあは(わ)れと思へ(え)山桜    花より外《ほか》に知る人もなし    大僧正行尊   ————————————————————————————————    もろともに くたばってしまえ やまくずれ    おまえらよりほかに しぬひともなし  〈通釈〉ひどい歌である。   ————————————————————————————————    春の夜《よ》の夢ばかりなる手枕《たまくら》に    かひ(い)なく立たむ(ん)名こそを(お)しけれ    周防内侍   ————————————————————————————————    ははははは ははははははは ははははは    ははははははは ははははははは  〈通釈〉笑っている。   ————————————————————————————————    心にもあらでうき世にながらへ(え)ば    恋にしかるべき夜半《よわ》の月かな    三条院   ————————————————————————————————    がはははは がはははははは がごげぎぐ    がごげぎげごぐ ごげごがげぎご  〈通釈〉笑っているらしい。   ————————————————————————————————    あらし吹く三室《みむろ》の山のもみぢ葉《ば》は    竜田《たつた》の川のにしきなりけり    能因法師   ————————————————————————————————    さらしまく いもりのやまの でんじはは    かっぱのかばの ざしきなりけり  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    さびしさに宿を立ち出《い》でてながむれば    いづこも同じ秋の夕暮    良暹法師   ————————————————————————————————    よそのいえ わがやをたちいでて ながむれば    いずこもおなじ さけのむなかれ  〈通釈〉禁酒させられた亭主どもの歌であろう。   ————————————————————————————————    夕されば門田《かどた》の稲葉《いなば》おとづれて    芦《あし》のまろやに秋風ぞ吹く    大納言経信   ————————————————————————————————    ゆさぶれば かどのいっけんや くずれおちて    あとのひろばに あきかぜぞふく  〈通釈〉ひどい歌である。こういうことをしてはいけない。   ————————————————————————————————    音にきく高師《たかし》の浜のあだ浪は    かけじや袖の濡れもこそすれ    祐子内親王家紀伊   ————————————————————————————————    おそれいる かんにんしてくれ わたくしは    ころしやしない ぬすみこそすれ  〈通釈〉泥棒があやまっている。   ————————————————————————————————    高砂《たかさご》の尾の上の桜咲きにけり    外山《とやま》の霞たたずむもあらなむ(ん)    権中納言匡房   ————————————————————————————————    こえたごの なかをぜんぶ ぶちまけにけり    めだまがかすみ たっていられぬ  〈通釈〉アホか。   ————————————————————————————————    うかりける人を初瀬《はつせ》の山おろし    はげしかれとは祈らぬものを    源俊頼朝臣   ————————————————————————————————    うっかりしける ひとをまたせて たなおろし    いんどかれーは にこまぬものを  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    契《ちぎ》りおきしさせもが露《つゆ》を命にて    あは(わ)れ今年の秋も去《い》ぬめり    藤原基俊   ————————————————————————————————    ちぎっておいた あせもがついに いのちとり    あわれことしの あきにはしぬめり  〈通釈〉勝手に死ねばよろしい。   ————————————————————————————————    わたの原《はら》漕《こ》ぎ出《い》でてみれば久方《ひさかた》の    雲井にまがふ(う)沖つ白浪《しらなみ》    法性寺入道前関白太政大臣   ————————————————————————————————    はらのわた こきだしてみれば たべかたに    みんながまよう だいしょうべんなり  〈通釈〉食えるか。馬鹿。   ————————————————————————————————    瀬を早み岩にせかるる滝川《たきがわ》の    われても末に逢《あ》はむ(わん)とぞ思ふ(う)    崇徳院   ————————————————————————————————    あしをはやめ いわにぶつかる たかげたの    われたらもとに もどらんとぞおもう  〈通釈〉あたり前だ。   ————————————————————————————————    淡路島《あわじしま》通ふ(う)千鳥《ちどり》の鳴くこゑ(え)に    幾夜《いくよ》寝覚めぬ須磨《すま》の関守《せきもり》    源兼昌   ————————————————————————————————    あわただしく とぶにわとりの なくこえに    きょうもねざめぬ しんだせきとり  〈通釈〉死んだ相撲取りを悼《いた》んでいるらしい。   ————————————————————————————————    秋風にたなびく雲の絶え間より    洩れ出《い》づる月の影のさやけさ    左京大夫顕輔   ————————————————————————————————    はなかぜに ながびくずつうの たえまより    もれいずるせきの かけこごほげほ  〈通釈〉風邪ひきの苦しみを歌っている。   ————————————————————————————————    長からむ(ん)心も知らず黒髪の    乱れて今朝はものをこそ思へ(え)    侍賢門院堀川   ————————————————————————————————    ながちょうば ひとのきもしらず ちりがみの    みだれてけさは そうじがたいへん  〈通釈〉新婚家庭の、女中の歌であろう。   ————————————————————————————————    ほととぎす鳴きつる方《かた》を眺むれば    ただ有明《ありあけ》の月ぞ残れる    後徳大寺左大臣   ————————————————————————————————    せろにあす もんくのかたを ながむれば    ただあねだけが うれのこりける  〈通釈〉「せろにあす」は文句の枕詞。ぶつぶつ不平を言っている者があるので、誰かと思って見たら、売れ残りの姉であった。   ————————————————————————————————    思ひ(い)わびさても命はあるものを    憂《う》きに堪《た》へ(え)ぬは涙なりけり    道因法師   ————————————————————————————————    おもいきれ いずれいのちは ないものを    むきになるのは あみだなりけり  〈通釈〉あみだ籤《くじ》で死ぬ人間を決めようとしている情景らしい。   ————————————————————————————————    世の中よ道こそなけれ思ひ(い)入《い》る    山の奧にも鹿《しか》ぞ鳴くなる    皇太后宮大夫俊成   ————————————————————————————————    よのなかに みちがなければ おもいしる    やまのおくにも なんにもなくなる  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    ながらへ(え)ばまたこの頃やしのばれむ(ん)    憂《う》しと見し世ぞ今は恋しき    藤原清輔朝臣   ————————————————————————————————    なくなれば またくいものや しのばれる    うしがいたよぞ いまはこいしき  〈通釈〉食糧危機の歌らしい。   ————————————————————————————————    夜《よ》もすがらもの思ふ(う)頃は明けやらで    ねやのひまさへ(え)つれなかりけり    俊恵法師   ————————————————————————————————    よももけら もけおもろけは もけやらで    もやのかまさけ もれもけりけり  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    なげけとて月やはものを思は(わ)する    かこち顔なるわが涙かな    西行法師   ————————————————————————————————    なけけこけ くきやかものこ こけかする    かこけかけこけ こけかきいきい  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    むら雨《さめ》の露もまだ干《ひ》ぬまきの葉に    霧立ちのぼる秋の夕暮    寂蓮法師   ————————————————————————————————    むらじゅうの ほこりがぜんぶ まきあがり    ちりたちのぼる あきのおおそうじ  〈通釈〉大掃除の風景である。   ————————————————————————————————    難波江《なにわえ》の芦《あし》のかりねの一夜ゆゑ(え)    身をつくしてや恋ひ(い)わたるべき    皇嘉門院別当   ————————————————————————————————    なぜはえた あしのつけねの ひとつかみ    みおとしていた このわたふきびょうかな  〈通釈〉綿吹き病の歌である。   ————————————————————————————————    玉の緒《お》よ絶えなば絶えね長らへ(え)ば    忍ぶることのよわりもぞする    式子内親王   ————————————————————————————————    たまたまよ こりゃたまんねえ たまらえば    たまげるほどに よわりもぞする  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    見せばやな雄島《おじま》のあまの袖《そで》だにも    濡れにぞ濡れし色は変らず    殷富門院大輔   ————————————————————————————————    みせてくれ しじゅつのあとの きずぐちが    ぬれにぞぬれて いろはかわらず  〈通釈〉まだ血が出ているらしい。   ————————————————————————————————    きりぎりす鳴くや霜夜《しもよ》のさむしろに    衣《ころも》かたしきひとりかも寝む(ん)    後京極摂政前太政大臣   ————————————————————————————————    くりとりす なくやつきよの くろしろに    これもふろしき ひとりかもかも  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    わが袖は汐干《しおひ》に見えぬ沖の石の    人こそ知らぬ乾く間《ま》もなし    二条院讃岐   ————————————————————————————————    わがそねは まわりにみえぬ ほけのしの    へとへとそらね かわくまもなし  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    世の中は常にもがもな渚《なぎさ》こぐ    海士《あま》の小舟《おぶね》の綱手《つなで》かなしも    鎌倉右大臣   ————————————————————————————————    よのなかは つねにもがもが もがげごぐ    もがのもがげの もげでかなしも  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    みよし野の山の秋風小夜《さよ》ふけて    ふるさと寒く衣《ころも》うつなり    参議雅経   ————————————————————————————————    みおさめの がまのくちから かねふけて    ふところさむく きょうもうつなり  〈通釈〉蟇口《がまぐち》から金が逃げたので憂鬱だ。   ————————————————————————————————    おほ(お)けなくうきよの民《たみ》におほふ(おう)かな    わが立つ杣《そま》に墨染《すみぞめ》の袖    大僧正慈円   ————————————————————————————————    おほほほほ おほほほおほほ おほほほほ    おほほほほほほ おほほおほほほ  〈通釈〉笑っている。   ————————————————————————————————    花さそふ(う)あらしの庭の雪ならで    ふりゆくものは我が身なりけり    入道前太政大臣   ————————————————————————————————    はらさそう はらはりたやの おんあぼきゃ    しにゆくものは わがみなりけり  〈通釈〉自分は死ぬ。   ————————————————————————————————    来ぬ人を松帆《まつほ》の浦の夕なぎに    焼くや藻塩《もしお》の身もこがれつつ    権中納言定家   ————————————————————————————————    こぬひまを まつよのからに だしなげに    やくやらもすやら にくはこげつつ  〈通釈〉上の句は「焼く」にかかっているらしい。焼いたり燃やしたりして、肉が焦げている。   ————————————————————————————————    風そよぐならの小川の夕ぐれは    みそぎぞ夏のしるしなりける    従二位家隆   ————————————————————————————————    かれそろぐ まらのおからの やさぐれは    へそぎもちつの つるしなりける  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    人も惜《お》し人も恨《うら》めしあぢきなく    世を思ふ(う)ゆゑ(え)にもの思ふ(う)身は    後鳥羽院   ————————————————————————————————    へともおし へともむぎめし あじけなく    へもりんどゆえに へのへのもへじは  〈通釈〉不能。   ————————————————————————————————    百敷《ももしき》や古き軒端《のきば》のしのぶにも    なほ(お)あまりまる昔なりけり    順徳院   ————————————————————————————————    ももひきや ふるきぱんつを しのぶにも    なおあまりあって むきだしなりけり  〈通釈〉なんとなくわかる気もするが、よくわからない。 馬は土曜に蒼ざめる  眼が醒めたら、とにかく馬になっていた。  一瞬、生理的な驚愕があって、それから徐々に意識が回復してくるにつれ、ああ馬なんだな、おれは馬になったのだなと自分を納得させるために努力を、故意に自分に強制しなければならなくなった。たとえ冗談半分にせよ、馬になることを望んだのは、他ならぬこのおれ自身だったからである。冗談から出たまことというのはまことにその通りだった。  うす目をあければ顔なじみ、友人の作家、檜垣吾朗と、藤川厩舎の主人で優秀な調教師でもある藤川重吉が、心配そうな顔をおれに向け、ふたり並んで、横になって立っていた。  横になっていたのはおれの方である。馬用の手術台などはないから、手術室の床へじかに寝かされていたのだった。 「気がついたかい」檜垣が、気づかわしげに首をかしげ、おれにそう訊ねた。「訊ねたところで、返事はできないだろうがね」  声を出そうとしたが、もちろんだめだった。ひひんと嘶《いなな》くことさえできなかった。まだ馬の発声器官に馴れてはいないし、だいいち、寝たままで嘶くことができるのかどうかさえ知らないのである。  どうやら、おれの背後にいるらしい外科医に、檜垣が訊ねた。「もう、意識はとり戻しているんでしょうか」  おれの長い首のうしろで、若い声が答えた。「その筈です」  檜垣はうなずいた。「では、説明しよう。とにかく、ひどい事故だった。君はおぼえているかしら。あの白い自動車。前からきたあの白い自動車が、君の乗ったタクシーと正面衝突したんだ。君の乗ったタクシーの運ちゃんが、無茶な追い越しをやろうとして逆方向の車線に出たためだ。運ちゃんは即死だった。君は屑鉄になった車の中から引っぱり出されて病院へかつぎこまれたものの、五体ぐじゃぐじゃ、人相さえわからぬひどさだった。さいわいなことに君のかつぎこまれた病院は有名な脳外科専門の病院で、院長は日本一の脳外科医、また脳生理学の権威でもある下村健三博士だった。博士は今、君のその長ったらしい首のうしろに立っておられる」 「はじめまして。下村です」博士が上から、おれの顔をのぞきこんだ。  おれは、まばたきを二回して答えた。〈よろしく。作家の松浦透——いや、違う。サラブレッドのダイマンガンです〉 「下村博士は、君の大脳がまだ生きているうちに、切開手術で摘出し、培養液に浸した。この処置があと数分遅かったら、君は競馬界期待のサラ四歳馬ダイマンガンとして生まれ変ることもなかったわけだ」檜垣は説明を続けた。「病院から電話があった時、おれは家で『勝利馬』の原稿を書いていた。『グループ・オーナーのすすめ』という原稿だ。だからすぐに、ダイマンガンのことを思い出した。君が生前、いっていたことをだ」  おれは、まばたきを五回続けた。 「失礼」檜垣は少しあわてて、言いなおした。「生前じゃない。君はまだ生きているからな。つまり、君がまだ人間だった時に、おれに喋っていたことを思い出したんだ。もっとも、あの時も今も、顔の長さはさほど変っちゃいないが、まあそんなことはどうでもいい。あの時君がおれに喋ったこと、あれはおぼえているかい」  おれは、まばたきを二回した。 「まばたき二回がイエスのようです」と藤川は檜垣にささやいた。  檜垣が、わかっているというようにうなずき、話を続けた。 「そこでおれは、すぐさま藤川さんに電話して、ダイマンガンを病院へつれてきてもらった。君の望み通り、ダイマンガンに松浦透の脳を移植するためだ」  檜垣とおれが、まだ三歳になったばかりのダイマンガンを買ったのは、去年のことである。血統のよい牡馬で、湯あがりのように毛並みのつやがよく、態度に気品があり、撓骨が長くて頑丈だった。檜垣もおれもひと眼で気に入ってしまい、金を半分ずつ出しあって買ったのである。見つけてきてくれたのは藤川だったから、おれたちはダイマンガンを藤川厩舎にあずけた。藤川の調教よろしきを得て、ダイマンガンは昨年七月の新馬戦、続いて九十万条件レースと勝ちあがり、かなりの評判になった。それ以後も三度に一度は五着以内で入賞し、おれたちも藤川も本賞金で大いに潤った。  檜垣といっしょに銀座のバーへ飲みに行った時の話題は、いつもダイマンガンのことばかりだった。おれたちはダイマンガンに惚れこんでしまっていた。おれも檜垣も、独身でよかったなあとうなずきあった。それでも、ダイマンガンに嫉妬する女性の二、三人は双方ともにあった。  そんなある日、新聞に、でかでかとこんな記事が出た。   脳移植、動物実験に成功!    条件そろえば人体にも可能か?  その夜、おれは銀座のバーで檜垣にいった。「もしおれがひどい事故にあって、脳移植手術が可能な状態なら、おれの脳を摘出してダイマンガンの頭へ入れてもらってくれ」 「いいとも。それは、できるそうだ」檜垣は真顔でうなずいた。「ただ、医者がやってくれるかどうかの問題だ。人道上の問題とかなんとか、いろいろうるさい議論になるだろうからね」 「おれの方に文句はないわけだから、あるとしたら人道上ではなく、馬道上の問題だろう。条件さえ揃えば、やってくれる筈だ。新聞にもそんなことが書いてあった」 「条件というのは、心臓が停止していず、五体が満足で、しかも脳死状態にある患者が、その時、いなかった場合——ということも含めてだろうね」 「その通り。おれの脳を移植出来る患者が、もしその時いれば——いや、患者というより、死体というべきかな。回復しない脳死の状態があれば、死が認定されるわけだからね。まあ、それはともかく、そういった、おれの脳を移植出来る人体がもしあったとすれば、医者はとてもじゃないが、馬は使わないだろうからね。しかし」 「しかし、そういう場合は、ほとんどない」おれと檜垣は、同時にそう叫んだ。  おれはうなずいた。「そうとも。五体満足で脳死状態にある患者など、滅多にいないし、先天的無脳症なんて患者は、生まれてすぐ死んでしまうからね」 「すると、摘出した脳を生かしておこうと思えば、人間以外の動物に移植するしか方法はないわけだ。もっとも、ずっと培養液に浸しておくことも考えられるが」 「それこそ人道上の問題だよ」と、おれは叫んだ。傍にいたホステスがとびあがった。「おれが死よりも恐れるのは、退屈だからね」 「まるで、そうなることが決っているみたいね」とびあがったホステスが、おれの横へ落ちてきながらそういって笑った。 「ついその気になった」 「しかし医者にしてみれば、そういった君の意志はわからないわけだよ」と、檜垣が心配そうにいった。 「なるほど。それはたしかにその通りだ。では文書にして、今君に渡しておこう」  おれはバーから紙を貰い、自分の意志を書き、署名捺印して檜垣に渡した。 「あの時の文書が、下村博士に納得してもらうために役に立った」横たわったままのおれに、檜垣は喋り続けた。「それでも、もちろんこのことが公表されると、世間がうるさい。下村博士にしても、成果を発表したい気持よりは、むしろそういったことを恐れる気持の方が強い。そうでしたね。博士」  また博士の顔が、さかさまにおれの眼の前にあらわれ、うなずきかけた。「その通りです」 「だからこのことは、君とぼくと下村博士と、ここにいるこの藤川さんの四人だけしか知らない。博士の手術を手伝ったのは看護婦ばかりで、みんな動物実験だと思っている。つまりダイマンガンの脳と入れ替えたのが人間の脳だとは、夢にも思っていない。他の動物の脳だと思っている」 「検死報告は、わたしがしました」と、博士が浮きうきした調子でいった。「明日の朝刊には、あなたが死んだという記事が、でかでかと載ります」  〈ありがとう〉二度まばたきした。    *  【サラブレッド】ウマの品種名。原産地はイギリスで、分類の上では純血種、軽種に属し、競走馬として改良され発達した。本種は英純血種といい、英純血種の血統登録書に登録された父母ウマから生まれたものをいう。他のどんなウマも及ばない卓越した疾走能力を持つ。(世界大百科典辞典)    * 「立ってごらん」と、下村博士がいった。  生まれたばかりの仔馬と同じである。なかなか立てなかった。馬の運動神経にまだ馴染《なじ》んでいない上、人間時代の記憶があるものだから、四肢が思うように動かないのだ。 「こんな調子で、さつき賞に出られるかしらん」檜垣や博士とともにおれを助け起しながら、藤川がそういった。「よたよたしている」 「すぐに馴れるさ。こいつは頭がいいしね。いや、ダイマンガンのことじゃなく、松浦透のことだがね」  〈あたりまえだ〉おれは二度まばたきした。そのとたんに、よろめいた。  中山のさつき賞は、二週間ののちである。当日の二、三日前までに調子をととのえておかなければ入着はおぼつかない。ダイマンガンのことは、今までわがこと[#「わがこと」に傍点]のようによく知っていたのだが、とうとうわがこと[#「わがこと」に傍点]になってしまった。  ひと眼を避けるため、手術は深夜に行われたらしい。病院の廊下に出ると、誰もいなかった。しんとしていた。おれの蹄《ひづめ》のニューム鉄の音だけが、かぽかぽと高く鳴った。何時ごろかなと思い、習慣で腕時計を見ようとして、またひっくりかえりそうになった。  エレベーターに乗った時も、人間式に直立している気でいて、前半分だけゴンドラに入れて平然としていたら、藤川がおれの尻を叩いた。 「どう。どう。いや失礼。松浦さん。お尻も中へ入れてください」 「さしあたっては、さつき賞があり、その次にダービーだ」と、エレベーターの中で檜垣がいった。「もし馬になったらという想定で、まだ人間だった時の君が喋っていたこと、あの打ちあわせ通りにやろう」 「あのう」と、藤川がいった。「こういったことは、八百長になるのでは……」  〈ならないね〉おれは、まばたきを三回した。 「そう。なりません」檜垣もうなずいた。「人間の意識を持った馬がレースに出てはならないということは、競馬法のどこにも書いてないでしょう」  エレベーターが、駐車場のある地階で停った。 「さあ。これからは馬らしく振舞ってくれ」と、檜垣がいった。「遠藤君がいるからね。彼は何も知らないのだ」  遠藤というのは、藤川厩舎の馬丁で、ダイマンガンの他にもう一頭受け持っている定年間近かの老人である。駐車場には二頭用の競走馬輸送トラックがあり、遠藤は運転手と並んで助手席に腰をおろしていた。  おれを見るなり、彼はトラックをおりて、駈け寄ってきた。「健康診断にしては、ながくかかりましたね」 「心配はない。精密検査をした結果、異常なしだ」と、藤川がいった。 「そんなことは、はじめからわかっています」遠藤は、なぜかぷりぷりしてそういった。  彼はおれの首を叩き、横腹を叩き、おれの顔をのぞきこんだ。「おかしいな」 「何がおかしい」檜垣が、ぎょっとした口調で訊ねた。 「ダイマンガンと違うみたいだ。動作がたよりない。性格が変わったみたいだ。眼つきがいつもと違う。眼が知的に光っている」  敏感な老人である。 「まさか、何かカマせたのでは」 「そんなことするもんか」藤川が怒気鋭くいった。「そんなことしたって、薬物検査でプラスと出たらたちまちバレてしまう。おれを見そこなうな」 「へえ」遠藤は首をすくめたが、なおも不審そうにおれを眺め続けた。 「では博士、どうもありがとうございました」と、檜垣が下村博士にいった。「手術代——じゃなかった、診察費は、明日お持ちします」 「さようなら」博士は、おれにうなずきかけた。「では、元気で」  おれは、うなずき返した。 「うなずいた」遠藤が眼を見ひらき、失神せんばかりの表情で叫んだ。「人間のことばがわかるんだ」 「なあに、蠅がいたんだよ」藤川が、眼前の蠅を追いはらう仕草をして、そういった。 「病院に蠅がいるもんか」下村博士はむっとして、そう呟いた。  おれがトラックに乗ると、檜垣と藤川がいっしょに乗りこんできた。遠藤も、助手席ではなく、今度はおれについて後部へ乗ってきた。トラックは藤川厩舎に向かって走り出した。 「やっぱり、おかしい」と、また遠藤がいった。「こいつはいつも、急停車や発車のショックで四つ足を踏んばったり、いらいらしたりするんだがね」 「そりゃあ、馬はみんなそうさ。こういう狭いところの好きな馬なんて、いないよ」藤川がいった。 「ところが今日は、よろけっぱなしだぜ」と、遠藤がいった。「耳も倒れていない」  おれは、松浦透であった頃、ダイマンガンといっしょに車に乗ったことが一度もなかった。だから、車に乗ったダイマンガンがどんな反応を示すか、知らないわけである。しかし、馬丁の遠藤に対してはどんな態度を示すか心得ていた。おれは彼に親愛の情を示した。耳を横にひろげ、鼻づらを彼の頬に押しあてた。 「ほら見ろ」と、藤川がいった。「あんたがいるから、安心してるんだよ」 「おう。よしよし。可愛いやつ」たちまち遠藤は眼を細め、だらしなく口を半開きにして、おれの鼻筋をなではじめた。「お前は可愛いやつだなあ」べたべたしはじめた。  これではいったい、どっちがご機嫌をとっているのか、さっぱりわからない。 「調教は、いつからやりますか」と、檜垣が藤川に訊ねた。 「春と秋は毎朝五時からやっているが」藤川は腕時計を見た。「もう三時だな。今日一日休ませてやりたいが、しかし、さつき賞が迫っている。昼からやることにしよう」  大丈夫か——という眼で、檜垣がおれを見た。おれは遠藤にわからぬよう、二度まばたきした。とにかく、手足の動かしかたに早く馴れなければならないし、さつき賞で不恰好な走りかたはできない。  もっとも、檜垣とのうちあわせで、さつき賞では優勝しないことにしてあった。三着以下にとどめるよう、相談ができていた。それでも、調教——むしろ、トレーニングというべきだろうが——の最終日、つまり木曜日の追い切り調教当日には、一ハロンを十三秒平均で走れるまでになっておかないと、いくら何でもみっともない。そしてダービーでは、是が非でも優勝しなければならないのだ。  読者は、不審に思われるだろうか。おれが人間としての生活——作家松浦透としての生活に、さほど未練を残していない様子なのを——。その通り、未練はなかった。作家としては一応成功した方だろうが、作家としての自分の限界は、まずこんなところだろうと見当はついていたし、また、原稿の締切りに追いまわされる生活には、つくづく飽きがきていた。  人間の女にだけは、多少未練はあった。だが馬の好きな人間の女だっている筈だし、また、どうしても人間に戻りたくなれば、それはそれとして方法がないわけではない。だがそのことは、あとで述べることにする。  とにかくおれは馬になりダービーに出場して走り、大穴を出し、優勝したかったのだ。賞金はすでに五百万近くかせいでいるからダービーには充分出られる筈だった。三着以内だと、自動的にダービー出場資格が得られるのだが、それだと本命馬にされるおそれがあり、大穴は望めない。  まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく松浦透であった頃からおれは、ダイマンガンに感情移入していて、ダイマンガンの自我をおのれの自我とW《ダブ》らせ、ケンタウルス・コンプレックスとでもいうべき、いわば馬同一化をはかっていたのだ。ダイマンガンと化した自分が馬場のコースを風のように疾走している夢など、何度見たかわからない。    *  【けいば】〔競馬〕ウマを走らせて勝負を争うこと。歴史的には古代オリンピックでも行われ、また日本の宗教的行事の間にも見られるが、近年では馬の改良と畜産の新興を目的とし、あわせて馬券によるかけ[#「かけ」に傍点]を伴ったスポーツとして、ほとんど全世界で行われる。(現代百科大事典)    *  おれたちは、藤川厩舎に到着した。この厩舎には十一頭の馬がいて、おれは中ほどの馬房に入った。右隣りは、やはり遠藤の持ち馬で、グリーンスターという牝馬、左隣りの馬房は空いている。  グリーンスターはサラブレッド四歳馬、おれ——つまりダイマンガンと同じくダービー候補馬である。馬主はある鉄工会社の社長令嬢で、おれは虹子というその女性に、この厩舎で一度だけ会った。その時は檜垣も一緒で、彼は虹子をひと眼見て完全にのぼせあがってしまったらしいが、おれは何とも思わなかった。たしかに美人には違いないが、おれはああいう、とげとげしい顔をした女は嫌いだ。  その夜は、おれの世話だけをして遠藤は宿舎へ寝に戻った。つまりブラシでおれの毛を梳《す》き、すきで馬房の奧の寝藁《わら》をかき起し、水とまぐさを入れてくれたのである。  おれは、まぐさを食った。  読者諸君。まぐさがどんなにうまいものか知っているか。おれも食うまでは、まずいに決っていると思っていた。ところがうまいのである。それはちょうど、ドレスをきかせた野菜サラダにスパイス入りのケーシングをまぜたような珍味だった。おれはおどろいた。ひとりでに咽喉が鳴るほどうまかったのである。嘘だと思ったら食べてみればいい。  満腹し、背に被せられた毛布はあたたかく、おれはぐっすり眠った。  その日の午後から、さっそく調教が始まった。といっても、おれはまだ馬の肉体に馴れていないから、騎手は乗らず、ただ歩きまわるだけだった。グリーンスターの方は助手が乗り、すごいスピードを出していた。あんなに走らせていいのかな——とおれは思った。牝馬の場合は、攻め馬でスタミナを消耗させると、レースの時に勝てないことが多いのである。 「攻め馬をやらないのかね」と、遠藤がおれの顎を示し、藤川に不満そうな表情で訊ねた。  まだ四肢の動かし方もぎこちないのに、乗られて走らされたのではひっくり返ってしまう。骨折して薬殺されるのはいやだ。 「こいつはもう、強い攻め馬をしなくていい」藤川が、うまくごまかした。「どの程度やればいいか、ちゃんとわかっているんだ。それに、こいつは前から、攻め馬じゃ手の内を見せないからね」 「ふうん。そうかねえ。以前はたしか、そうじゃなかったようだが」  そこへ、檜垣が調教を見にきた。  虹子も、グリーンスターを見にやってきた。 「どう。この馬の調子」サモン・ピンクのミニを着た虹子が、いささか敵意をこめた眼つきでおれを見ながら藤川に訊ねた。 「上々ですよ」藤川は檜垣の手前、そういった。  檜垣は黙ったまま、心配そうにおれを眺めていた。 「よたよたしてるじゃないの」と、虹子がいった。 「こいつは、カンカン照りのかわいた馬場よりも、重馬場の方が得意なんです」藤川が、おれに聞かせようとして、大声でそう答えた。「前足の蹄が立っていて、小さいですからね」  もちろん、そんなことは松浦透だった頃から、よく知っている。  調教が終ると、檜垣は厩舎までついてきた。 「だいじょうぶかねえ。まだダイマンガンのからだに馴れないようだが」遠藤がいない時に、彼は心配そうな表情でおれに訊いた。「あんなによたよたしていちゃ、まともに走れないだろう。さつき賞には出られても、あんまり変な走りかたで負けたら、ダービーに出してもらえないぜ」  おれはフレーメンをして見せ、大きくかぶりを振ってやった。 「わかってるよ。調教ではわざともたもたした走りかたをして、前評判を悪くしておくっていうんだろう」檜垣はうなずいた。「わかってはいるんだが、ちょっと心配でね」  〈だいじょうぶだよ。心配するな〉おれは、うなずいて見せた。 「それからもうひとつ」檜垣は人差し指をあげた。「いくらうまく走れるようになったからといったって、三冠馬になろうなんて野心は、起してくれるなよ。君もいってたように、ダービーでは大穴で優勝してほしいんだ。そのためには、さつき賞でいい成績を出しちゃいけない。くれぐれも頼んでおくよ」  おれはまた、うなずいた。  三冠馬になりたいという野心は、それほど持っていなかった。もちろん、三冠馬というのは魅力的ではある。しかし、名誉を名誉と感じるのは人間だけであって、おれは人間ではない。もっとも、大儲けをしたところで、馬であるおれにとっては今のところ何にもならない。檜垣が金持ちになるだけだ。それでも、人間たちを驚かせるということは、今のおれにとって最高の楽しみなのだ。 「誰と話してたの」厩舎へ虹子が入ってきて檜垣に訊ねた。 「いえ。別に」檜垣が少しどぎまぎして答えた。「ひとりごとです」 「うそおっしゃい。ダイマンガンと話していたんでしょ」 「えっ」檜垣は一瞬ぎょっとしたが、すぐに笑い出した。「ええ。実はそうなんです。こいつ、ぼくのいうことがわかるんですよ」 「あら。そうなの」虹子も、くすくす笑った。「利口そうな馬ですものね」気のり薄にそういい、あからさまに、檜垣に色目を使った。「よほど馬がお好きなのね」 「え、ええ。まあ」 「人間の女性と、どちらがお好き」虹子がしなを作ってそう訊ねた。  やれやれ——おれは眼をそむけた——もしおれに見せつけるようなことをしやがったらあとで檜垣を蹴とばしてやるぞ。 「あら。直接的ね」と、虹子がくすくす笑いながらいった。  眼の隅でちら[#「ちら」に傍点]と見ると、案の定檜垣が、虹子の唇を奪っていた。おれはあわてて、ふたたび眼をそむけた。 「眼をそむけたわ。この馬」虹子がおれを見て、ぶったまげたような大声を出した。  檜垣があわてて虹子のからだをはなした。「そうそう。こいつに見られていることを忘れていましたよ。嫉妬するといけないから、やめておきましょう」 「だってこの馬、牡馬でしょう」 「いや。あなたに対してですよ」 「あら」虹子がおれに訊ねた。「お前、わたしが好きなのかい」  よっぽどかぶり[#「かぶり」に傍点]を振ってやろうかと思ったが、あやうく思いとどまった。 「でも、この馬は調子が悪そうね」虹子は見さげるようにおれを眺めた。「さつき賞は、どうやらわたしのグリーンスターのものらしいわ」 「過去二十九回のさつき賞レースで、牝馬が優勝したのはたしか二回だけですよ」 「ただの牝馬じゃないわ。とびきりの血統なのよ」  おれは横眼でグリーンスターを眺めた。グリーンスターも、じろりとおれを見た。ありありと敵意がうかがえたので、おれはびっくりした。 「最近、あなたのお友達はどうしてるの」と虹子が訊ねた。 「え。ああ、松浦ですか。あいつは交通事故で死にました」 「あらそう。よかったわね」 「え。よかったとは、なぜですか」 「だって、ダイマンガンがあなたひとりのものになったじゃないの」 「それはまあ、そうですが」檜垣はひやひやしながら、横眼でおれをうかがった。 「あの人、感じの悪い人だったわね。人を馬鹿にするみたいな口のききかたをしたり、だいたい生意気だったわ」  生意気なのはそっちだ——おれはかっとした——前からいやな女とは思っていたが、こんなにいやな奴とは思わなかった。  むかむかしているのが表情へ出たらしい。檜垣はあわてて虹子を厩舎の外へつれていった。きっとどこかへ遊びにいくのだろう。しかし、ぜんぜん羨《うらや》ましいとは思わなかった。あんな女と口をきくぐらいなら死んだ方がましだ。  翌朝、五時からの調教では、おれの背中に見習い騎手が乗った。ひどくへたくそな見習いで、気が弱くて臆病な癖に文句だけは一人前、しかも必要以上に鞭《むち》を使いやがった。 「この馬、勝手に走るね。ぜんぜんこっちのいうことをきかないよ」  冗談ではない。こっちは意識だけは人間なのだから、見習いがこっちにどうしてほしいかは馬以上に理解できるし、むしろ落馬させないように気を使ってやっているくらいなのだ。自分の技術のまずさを馬のせいにするような、こういう見習いは絶対に出世しないよ。  腹が立ったから、それ以後は気を使ったりせず、勝手に走ってやった。自分のコンディションは自分でわかるし、どうせ競馬は人三馬七、つまり騎手の力が三分とすれば馬の力が七分なのである。頼りにすべきは自分の足なのだ。  自分のペースで思うようにトレーニングにはげんだお蔭で、ついには一ハロン十七秒で走れるほどになった。見習い騎手のうるさかったこと。藤川と檜垣は顔を見あわせて苦笑していた。  この日、虹子はやってこなかった。大勢のボーイ・フレンドと遊び歩くのにいそがしいのだろう。    *  【さつき賞】イギリスの「二、〇〇〇ギニー」を模したレースで、昭和十四年に横浜で「横浜農林省賞典四歳呼馬《よびうま》競走」の名で行われたのが最初です。距離はいろいろと変わりましたが、現在の二、〇〇〇メートルになったのは昭和二二年からです。競馬場も中山、東京と変わりましたが、現在では中山競馬場で行われることになっています。このレースはサラ四歳の牡、牝混合で、重量は牡馬五七キログラム、牝馬五五キログラム。(橋本邦治著『競馬の楽しみ方』)    *  さつき賞前日、檜垣が厩舎にやってきた。  厩舎の中に誰もいないのを確かめてから、彼はおれにいった。「君の調子が悪いということは競馬記者の間で評判になっている。前売り馬券の売れ具合を見ても、君の人気はよくない。これが新聞だ」  檜垣は競馬新聞をおれに見せてくれた。なるほど、おれの名前には、二重丸はおろか、ただの丸さえついていない。それに反し、隣房のグリーンスターは単勝の二番人気、連勝式でも、彼女のからむワクは圧倒的に売れていた。 「どうだね。この馬に賭けてみようと思うんだが」檜垣が、グリーンスターを指しておれに訊ねた。  おれは、はげしくかぶりを振り、まばたきを続けた。追い切り調教以後、彼女の様子がおかしいということは、ずっと隣で観察しているからよく知っている。 「なぜだい」檜垣が訊ねた。  おれは蹄で、馬房の床に字を書いた。本当は馬の発声器官を使って喋りたいのだが、誰かに聞かれたら大変だし、だいいち、どんな声が出るものやら自分でも見当がつかない。おかしな声を出せば自己嫌悪に陥る。  『フケるおそれあり』と書いたおれの字を読んで、檜垣は眼を丸くした。 「ほんとか」あらためてグリーンスターを眺めた。「そういえば、このあいだから暖かい夜が続いたからな」うなずいた。「よし。いいことを教えてくれた。彼女に賭けるのはよそう」  檜垣が戻っていくと、入れ違いに虹子が入ってきた。彼女は自分の馬を、しばらく心配そうに眺めてから、次におれの馬房の前に立ち、しばらく敵意のこもった眼でおれを眺めてから、おれの口もとへチョコレートをつき出した。  〈何かカマせようとしてるな〉おれはそう悟り、あからさまな敵意の表情をして見せてやった。耳をうしろに伏せ、首をつき出して歯をあらわに見せてやったのだ。  虹子はびっくりしてチョコレートをひっこめた。それからしばらく不審そうにおれを眺め、おれが彼女に敵意を持つ原因が何も見あたらないものだから首をかしげ、やがて憎にくしげにおれを睨《にら》んで立ち去った。  ここでこの間から馬丁同士の話などを聞いていると、競馬界にまだまだ不正が行われているらしいことにびっくりする。麻酔剤をのませたり、のませすぎて殺したり、薬をカマせすぎて馬を盲目にしてしまったり、ウイスキイを飲ませたり、鼻にチューブをさしこんでコカインを入れたりといった悪事が、陰で行われているのだ。  普通カマせるというのは、馬がよく走るように興奮剤をあたえることだが、逆に、さっき虹子がおれにしようとしたように、対抗馬の能力を減退させるために不正を行うこともある。これに関しても馬丁の内緒話を聞いておどろいた。いやもう、ひどいものである。リンゴをくりぬいて眠り薬を入れ、馬に食わせるわ、パドックを出るなり酸を引っかけて出場不能にするわ、ハイミナール入り角砂糖は食わすわ、輪ゴムは食わすわ、時にはレース前、バケツ一杯の水を飲ませたりもするという。それまでにわざと水をやっておかなければ、馬はのどがかわいているからいくらでも飲む。これをやられると馬にしてみれば腹の中ちゃぶんちゃぶんで走るどころではない。  現在、競走馬の薬物検査は一、二、三着に入線した馬に対して行われているだけだから最近では興奮剤をあたえるよりも、むしろこの能力抑制をやる場合の方が多いのである。発見されることが少ないからである。  虹子がおれに何かカマせようとしたのは、もちろんグリーンスターを少しでも有利にするためだ。おれは彼女の対抗馬ではないのだが、たまたまこの厩舎からさつき賞に出るのはおれとグリーンスターの二頭だけなのだ。もし他にいれば、虹子はその馬に対しても何かカマせたにちがいない。出場馬全部が装鞍所に集合してからは監視が厳重で、とても薬物投与などはできないのである。  その夜も、いやになま暖かい夜だった。  案の定、その夜ついに、グリーンスターはフケた。先日来のおれへの敵意はどこへやら、変りやすい女心というのは人間も馬も変りはないらしい。眼を細くしておれの方へ頭をつき出し、しきりに前掻きをし、嘶いたり、尻尾《しっぽ》をもちあげたりしはじめた。  どうやら、惚れられたらしいな——おれは苦笑した——こいつは厄介なことになった。牝馬に好かれたのは生まれてはじめてだが、こっちにはまだ人間の意識が残っていて、明日のレースをひかえて恋愛どころでなく、だいいち相手にそれほど色気を感じない。もっとも、思いきってやってしまえば、まぐさを食った時同様それはそれで味のあるものかもしれないが、どんな仔馬が生まれるか、それがこわい。  そんなことを考えているうちにも、グリーンスターはますます発情してきた。フレーメンをしながらおれに食いつこうとする。いわゆる擬咬《なまがみ》というやつだが、人間でいうなら愛咬であろう。食いつかれては大変だから、おれは馬房の隅に身を寄せて避けた。  その夜グリーンスターは興奮のしっぱなしで、おかげでこっちも眠れなかった。  翌日は当日輸送で中山へ送られた。  具合の悪いことに、おれとグリーンスターは二頭用のトラックで送られることになり、道中またもや彼女の擬咬に悩まされることになった。ただ、遠藤がいっしょに乗ってくれたので、だいぶ助かった。 「あっ。こいつフケやがった」グリーンスターの様子を見て遠藤はおどろき、あわてておれをかばってくれた。  ふつう、競走馬の牝馬が発情しているかどうかは、なかなかわかりにくいものである。発情していても態度を変えない牝馬だっているし、牡馬の発情みたいに外部から判断し難いのである。だが、さすがに遠藤は老人だけあって、グリーンスターの外陰部の紅潮をひと眼見てフケたと判断したのである。  だがその後は、スタート一時間半前に装鞍所に入って検査された時も、パドックで引きまわされている時も、彼女はさほど異常な振舞いはしなかった。だいいち一般のファンがパドックで馬を見ても、馬の好不調など容易に判定できるものではない。彼女に賭けたファンが、だいぶ損をすることになるな——と、おれは思った。  ただ、おれの連番が二ワクで彼女が三ワク、おれの馬番が5で彼女が6、つまりパドックでは、彼女はおれのあとからついてくるのである。尻に噛みつかれないかと、だいぶひやひやした。  おれに乗った騎手は追い込み型の乗り方をする島原という男で、この男は後半よく鞭を使う。この男に、だいぶひっぱたかれることになりそうだ、と、おれは思った。ダイマンガンは追い込み型の馬だったのだ。  ゲートに入る時、グリーンスターはまたもやおれに噛みつこうとして少しあばれた。だが発走除外処置を受けとるほどではなかった。ゲートに入ってからも彼女はしきりにおれの方へ首を寄せた。騎手がだいぶ手こずっていた。彼女のため、スターターはなかなかスタートを切らせなかった。  ゲートが開いた。  あまりにも、ぶざまな負けかたはできないと自分にいい聞かせていたものだから、おれは思いきりよくとび出した。蹄の音と地ひびきがおれの鼓膜をくすぐった。  おれは、まちがえていた。スタートのタイミングのよさというものは、その基準が馬と人間で違うものらしい。おれは人間として運動神経が発達していた。スタートのタイミングが合いすぎた。  ふと気がつくと、おれは先頭を走っていた。グリーンスターが、けんめいにおれを追ってくる様子である。  〈しまった。おれはペースメーカーになってしまったらしいぞ〉腹の中で舌打ちした。  おれの騎手は、そのままおれを走らせる様子である。わざとペースを落して馬をさげ、直線に入ってから追い込ませるなどといった味のあるレースのできる騎手でないことは、おれは知っていた。  ふつう、馬を押さえるというのは、馬のスピードを意識的に押さえたり、わざとスタートをとちって数馬身遅れたりすることである。だが、あからさまにそれをやると走路監視員からたちまち見破られてしまうし、何度もやれば免許をとり消される。ダイマンガンは以前から出遅れた方が調子を出す馬だったし、騎手もそれを知っている。騎手はしまったと思っただろうが、おれもしまったと思った。このままでは一着になり兼ねない。  自分で勝手にペースを落してやろうかと思ったが、すぐうしろにグリーンスターがいる。フケた牝馬が競走中に惚れた牡馬に噛みつくなんてことはまずあるまいが、すり寄ってこられては迷惑だ。転倒したら一大事である。おれはけんめいに、彼女を振りきって逃げた。  観衆が湧いているところを見ると、どうやら他の馬との距離がだいぶ開いてしまったらしい。自分でも、これだけ走れるとは思っていなかったから意外だった。  そのうち、背後からグリーンスターの気配が遠ざかった。  だいたい、フケた牝馬がそんなに走れるわけがない。いくらおれを追おうとしてもだめである。追うだけの力も出ないのだ。  おれは安心し、少しペースを落した。  騎手は逆に腰を落し、手綱をあおり、足でしめつけてきた。  直線コースに入った。観衆はさらに湧いた。  おれはまだ先頭のままである。このままでは優勝してしまう。そうなっては大変だ。檜垣が怒る。おれはペースを落した。  騎手はけんめいに鞭をふるった。  おれはおかまいなしにペースを落した。もう走れません、精力を使い果しました、疲れ切っていますという芝居をしながら走った。  ゴール寸前、どどどどどどどど、地ひびき立てて数頭の馬がおれの背後に迫ってきたかと思うと、たちまち追い抜いてゴールへとびこんだ。  おれは四着、グリーンスターはビリだった。    *  【発情】周知の如く牝馬が発情することをフケルといって、彼女はさっぱり走らなくなる。牡馬でも多少そうした関係にあるらしい。  1 陰茎を出し、或は鼓腹する。但しそれが習癖となったものもある。  2 地上にある他の馬の糞をいちいち嗅ぐ。  3 フレーメン(Flehmen) 俗に「馬が笑う」という。唇を反らし、首を高くあげて歯を露出さすので、一見笑っている如く思われるが、実は性欲に関連しているのであって、決して笑っているのではない。(間直之助著『競走馬の表情』)    *  グリーンスターは発情期が過ぎてしまうとすぐ常態に戻り、おれに噛みついたりはしなくなったものの、彼女の馬主である虹子は、おれに対してそれ以後ヒステリックなほどの憎悪を示しはじめた。一度などは、厩舎に誰もいないことを確かめてから、だしぬけにおれの鼻づらへライターの火を押しあてようとした。  ある程度は予想していたから、おれはさほど驚かなかった。それでも、あやしまれてはまずいから大いに驚いたふりをしてあばれ、馬丁の遠藤を呼ぶため大声で嘶いてやった。ふつうの馬なら、気がくるったようにあばれるところだ。さいわい、遠藤がすぐにきてくれたので、それ以上の被害は受けなくてすんだ。まったく、女の憎しみはとんでもないところへ飛び火するからこわい。彼女はグリーンスターが負けたのは、おれが誘惑してグリーンスターを発情させたからだと思いこんでいるのだ。藤川や檜垣が、そんなことはないといかに説明しても頑として自説を主張し、しまいには皆でわたしをだますのねと叫び出すから始末におえない。  さて、ダービーが近づいてくるにつれ、競馬評論家たちが、例年通り出走予定馬の能力評価をあちこちに発表しはじめた。檜垣が見せてくれた週刊誌や新聞によると、本命と目されているのは案の定、さつき賞で優勝したシンゲツという馬で、有力な対抗馬はいないというのが大方の見方である。グリーンスターにしろおれにしろ、今までの成績がよくなかったものだから、あまり高く評価されていなかった。  それでも、グリーンスターがさつき賞で負けたのは発情のためと断じた鋭い評論家がひとりいて、彼はグリーンスターに◎をつけていた。グリーンスター自身も、その後のレースである程度は名誉を挽回していたのである。また、馬は血で走る[#「馬は血で走る」に傍点]という主張を持つ評論家は、血統という点からグリーンスターに◎を、おれには○をつけていた。全員の評価を平均すると、グリーンスターは中位、おれは二十八頭のうちの二十番目くらいにしかランクされていなかった。 「グリーンスターは三着以内に食いこむよ」ある日おれは、檜垣にそういった。もう、馬の発声器官を使ってまともに喋れるようになっていたのである。最初のうちは舌が長いため、レロレロしたものの、馴れてしまえばなかなか魅力的な声で話せるようになった。 「おれもそう思うね」檜垣はうなずき、隣の馬房を眺めた。「すごく調子が出てきている。ダービーじゃ完調に仕上がると藤川氏もいっていた。強敵になるかもしれんな」 「さつき賞の惨敗で評価がガタ落ちだけど、フケたからだという原因を知っているやつはあまりいない。ダービーじゃ、おれが優勝、この馬が二着になりそうだ。大穴だ」 「すごく自信がありそうだが」檜垣が、やや不安げにいった。「安心していていいんだろうな」 「安心していろ。自分のからだのことは、騎手や調教師よりおれ自身がいちばんよく知っているんだ。だからおれはあいかわらず、見習い騎手のいうことを聞かずに、勝手に自分のコンディションを整えている。そうするのがいちばんだし、また、そういうことをした馬は他にいないんだからね。勝たなきゃおかしいよ。それにおれは、馬になってからこっち、馬の気持がよくわかるようになった。こいつは当然、前から予想していたことで、君とも話しあったことがあるだろ。つまり、馬の心理に詳しくなった。これがどういうことかわかるだろう。他の馬を威圧したり、脅したりすることが自由にできるようになったんだ。装鞍所とパドックで他の馬をおどかし、おびえさせて、レースの時に、万一おれより早い馬がいても、絶対におれを追い抜くことができないようにしてやる」 「そいつはすごい。話は聞いていたが、そこまでできるようになるとは思わなかった」彼は眼を輝かせた。「ありったけの金で馬券を買う。全部、単勝式で君に賭けようかと思っていたが、今の話を聞いて気がかわった。そのうち三分の一の金で連勝式を買おう。君とグリーンスターに賭けるんだ」 「よかろう」おれはうなずいた。「他の馬がグリーンスターを追い抜かないように操作してやればいいわけだ。大穴だ。すごい金額になるな」 「億を越すかもしれん。とにかく、儲けは山分けだ」そういってから彼はウインクした。「無記名の預金をしといてやる。君が人間に戻る気を起すまでな」 「ああ、頼むよ。だが当分は馬のままでいたいもんだ。もっと儲けたいからな」 「その方が、こっちもありがたい」檜垣はあきらかに、嬉しそうな顔をした。「そのかわり賞金は、ぜんぶ君にやるよ。君が勝ったのだから君のものだ」  もう金が入ったつもりでいる。それにしても欲のない馬主だ。 「もっとも、競走馬としての全盛期はあと三年くらいだ。それ以上はいやだよ」と、おれはいった。「老醜をさらすのはみじめだからね」  藤川と檜垣が相談して、おれをダービーまで他のレースには出さないことにしてくれたらしい。外部には、休養させてダービー一本に備えていると発表したようだ。だからこっちは、のんびりと体力づくりに励んでいればよかった。  だが、一カ月はまたたく間に過ぎ、いよいよダービーがやってきた。  ダービー前日の土曜日の夜、また虹子がやってくるんじゃないかと思ったとたん、やはり彼女の姿が厩舎にあらわれた。しかも今度は、誰もいない深夜に、スプリングコートを身にまとって、どこから入ったのかたったひとりでやってきた。  彼女はまっすぐおれの前にやってきて、にやにや笑いながらおれを睨んだ。今度は何をする気かと、おれは耳をしぼって身構えた。 「そんなにこわい顔をしなくていいわ。松浦さん」と、彼女はいった。  おれは蒼くなった。  誰が彼女に話したのか——咄嗟《とっさ》に、おれは考えた。檜垣も、藤川も、そんなことを喋る筈はない。では、外科医か。あの下村という若い博士か。まさか。では、いったい誰だ。  誰が喋った——と、声に出して彼女に訊ねようとし、あわてて口をつぐんだ。もし確信していないでカマをかけているだけだったら大変だ。自分でばらしてしまうことになる。 「誰に聞いたわけでもないわ」と、彼女は面白そうにおれの表情の変化を眺めながらいった。 「でも、知ってるの。あなたが檜垣さんと話しているのを、立ち聞きしたの」 「しまった。やっぱりあれを聞かれたか」と、おれは嘶くように叫んだ。「いつも気をつけているのだが、つい話に夢中になると大声になってしまう。しくじった」  虹子はくすくす笑った。「馬が喋ってる顔って、けっさくね[#「けっさくね」に傍点]」 「何をする気だ。中央競馬会にタレ込むつもりか。それとも、タレ込むと脅迫して檜垣から金をまきあげるつもりか」 「金ですって。お金なんかいらないわ」虹子は鼻で笑った。「誰に話したところが、気が変になったと思われるだけよ。そっちにだって、ボロを出さないだけの用意はしてあるでしょうからね」 「では、何をする。おれにまた、何かカマせるというのか。そうはさせんぞ」 「カマせたりしないわ。無駄だってことは一度経験ずみでしょ。でも、明日はどうしてもグリーンスターに勝たせたいの。だって、あんたの陰謀で、この子、さつき賞じゃフケちゃったもの」 「あれはおれのせいじゃない」おれははげしくかぶりを振った。首の長さを計算に入れていなかったので、馬房の柱で頭を打ってしまった。「あの時は、彼女が勝手にフケた。だいいち、牝馬の誘惑のしかたなんておれは知らんし、知りたくもないし」 「弁解無用。眼には眼を。歯には歯よ」 「と、いうと」 「そう。今度はあんたを発情させてやるの」彼女は小さな茶色の小壜を出した。 「それはなんだ」 「興奮剤。牡馬用の興奮剤よ。匂いを嗅いだだけで発情するわ」そういうなり、彼女は壜の蓋をとって中身を寝藁にぶちまけた。カルキ臭い異臭が鼻をついたが、すぐにどうなるということもなかった。 「どうなるということもないな」おれはフレーメンをしてやった。「あんたは、おれの脳が人間の脳だということを知ってるだろ。人間の脳に刺激をあたえるには、この薬じゃだめなんじゃないかね。何も感じないよ」 「これでも感じないかしら」彼女は、スプリングコートを、さっと脱ぎ捨てた。 「やっ」  おどろいたことに、彼女はコートの下に何も纏《まと》っていなかった。全裸だった。おそらく彼女は、自分の裸体に自信を持っているのだろうが、いくら自信を持ってもおかしくはない、みごとな裸だった。  残念ながら、おれはたちまち欲情した。虹子には反感を持っていた。と、いうより、大嫌いだった。だが、それと肉欲とは別のものだ。おまけにこっちは、馬になって以来一カ月半ほど禁欲生活を続けている。たちまち、さっきの薬との相乗作用で頭に血がのぼった。 「やめろ」おれは嘶いた。「や、やめてくれ」 「ううん。やめないの」彼女は妖《あや》しく身をくねらせ、とても字には書けないような猥雑な行為を演じはじめた。鼻声で、こっちの心臓が口からとび出るような強烈なことばを呟《つぶや》き続けながら。「ねえ。もっと感じて」  こっちは馬だから、彼女に襲いかかることもできない。また、人間馬としてのプライドがあるから、真正馬であるグリーンスターにおどりかかって交尾することなど、できない。いくら興奮しようが、いくら感じようが、何もできないのである。いたずらにおれのペニスは勃起《ぼっき》し、興奮してあばれるたびにポンポコポンの腹つづみを打つばかり。 「やめろ。やめろ。助けてくれ」おれは自分のからだのあちこちを噛みまくりながら、もだえ苦しんだ。  自分のヌードを半時間ばかり見せびらかしてから、虹子は帰っていった。だが、おれはおさまらなかった。  翌、ダービー当日になっても、おれは発情したままだった。    *  【ダービー】ロンドンで毎年行なわれる大競馬(一七八〇年、貴族ダービーが創始した)。四歳馬の特別レース。転じて、優勝あらそい。「ホームラン——」Darby(岩波国語辞典)    *  装鞍所では、他の馬を脅迫するどころではなかった。蹄鉄を調べたり、体重を測定したりされている間、おれはなんとかして、頭の中にちらちらする虹子の裸を消そうとしてけんめいになっていた。もちろん、うまくいかなかった。ペニスはあいかわらず勃起したままだし、睡眠不足でふらふら、おまけに食欲がなかったから、今朝はカイバもそれほど食べていない。無理をして食っておこうとしたが、ある程度以上はどうしても食えなかったのである。  パドックで引きまわされている間、最前列にいた檜垣がおれのペニスを眺め、ぎょっとした表情になり、それから眼をまん丸に見ひらいた。おれは身がすくむ思いで、首をさげ、横眼で彼を見ながら歩いた。彼は笑うことも怒ることもできず、絶望の色をありありと浮かべてかぶりを振った。  虹子も、やはり数人のボーイ・フレンドと最前列にいた。彼女はおれの姿を見るなり、とり巻き連中といっしょに笑いころげた。おれの股を指さし、腹をかかえて笑った。おれは怒りに胸を熱くしながら、悄然としてパドックをぐるぐるまわった。 「この馬は、鞭を嫌うからね」島原がおれの背にまたがると、藤川が彼にそう念を押した。 「見せ鞭だけでいいよ」 「わかってる」と、彼はいった。完全に勝負を投げているような口調だった。「さつき賞じゃ、鞭を使えば使うほど調子が落ちた。今日は勝手に走らせてやる。だけど、このありさまじゃ、どうせねえ」彼は苦笑した。  藤川も、あらためておれの股間を眺め、失望の色を深くした。  悪いことは重なるものである。馬場へ出ると先日来のカンカン照りでコースは乾ききっていた。本命馬のシンゲツもグリーンスターも、おれとは逆に重馬場が不得手なのだ。おれにとっては、これ以上不利な条件はない。おまけに外ワクだ。二十八頭立ての二十七番ワクなのである。おれは外ワクが苦手だし、わざと包まれて他の馬を脅かすなどということも、これでは難しい。  ゲートに入った。疲労に興奮が重なり、おれの一物はますます猛《たけ》り立ってきた。しかし、勝たなければならなかった。檜垣は有金残らずおれに賭けている。負けたりしたら、その金をとり返すのが大変だ。ただのレースで四回や五回勝っても追いつかない。  時間が迫り、観衆が湧いてきた。  死にものぐるいで走ってやるぞ——おれは武者ぶるいした。そのはずみに、またもやペニスの先端が当り、おれの腹がぽんと鳴った。その時、ゲートが開いた。  あわててとび出した。だが、出遅れてしまった。  さっきからいれ込んでいた馬二頭が先頭を走り、そのすぐ後を一団となって走る六、七頭の中に、シンゲツとグリーンスターがいた。おれは遅れたものの、比較的自由に外について走っているので、全体の様子がよくわかった。  十六万五千のファンが、湧きに湧いている。だからといって、ここで全力を出して走ってしまえばますます不利になる。さいわい、外についている限り、前の馬の蹴たてる砂をかぶることもない。  様子を見ながら機会をうかがって走っているうちに、おかしなもので、だんだん楽になってきた。レースに意識を集中したから、ペニスの鬱血《うっけつ》が引いたのだろう。  第一コーナーから第二コーナーまでのゆるいカーヴの間に、先頭だった二頭がたちまち遅れて、どん尻になってしまった。先頭の方では接戦になっていた。シンゲツが三番め、グリーンスターは五番めを走っていた。おれ自身は、よくわからないが二十番めくらいにいるらしい。  コースは、やや上り坂になった。  第三コーナーから第四コーナーにかけて、ふたたびゆるやかなカーヴになっている。いつまでも外についていると不利だ。おれは直線コースのうちに先頭との距離をつめ、第三コーナーあたりから第四コーナーまでの間に、先頭の一団となっている六、七頭のうしろへ割りこんでやろうとした。  第三コーナーを頂点に、コースは下り坂になった。  割りこもうとした。  だが、割りこめなかった。七、八番めから十五、六番めにかけての馬群が、猛烈にもみあっていた。馬群のまん中にいて前後左右の馬にこすられたやつなど、たちまちスタミナを消耗して脱落していった。  このあたり、すごい地ひびきである。走っているおれにまで感じることができるほど、地面が揺れ動いていた。このすごいもみあいの中に入って包まれてしまい、もまれたりしたら大変だ。だいいち、外からだしぬけに内を狙えば失格の対象にもなる。うまくやらなければならない。  よし、脅してやれ——おれはそう思った。馬というやつは、猛獣の咆哮《ほうこう》を聞けばたいてい驚く。おれは人間時代、ライオンの真似がうまかった。馬になってからはまだ試みたことがない。しかし、人間の声帯よりは馬の声帯の方が造りがでかいから、低い声が出る筈だ。  おれの内側を、中ワクから出た馬が走っていた。手はじめに、そいつの耳もとで咆《ほ》えてやった。 「がおう」  そいつは内側へとびのいた。内ワクから出た馬とぶつかった。二頭とも、転倒した。さらに数頭の馬のひっくりかえる音が、おれの背後に響きわたった。観客の喊声《かんせい》が天地に轟きわたった。ダービー始まって以来の大事件だろう。  直接手をくだしていないのだから、失格になる筈はない。レースの様子を前とうしろと横から撮影しているパトロール・フィルムを見たって、何もわからないのだ。  空間ができたので、おれは内をとった。十番めくらいに入った。おれはそれからも、次つぎと前の馬を内から追いあげ、ここぞというところでその馬の耳もとへ咆えてやった。騎手に聞かれてはまずいから、さっきよりは小さく咆えた。それでも効果はあった。みんな、どの馬も、外側へとびのいた。おれは外の馬からかぶさるようにされるたびに、そいつの耳もとで咆えた。走りやすくなり、おれはぐっと有利になった。しかし、もう転倒する馬はなかった。  第四コーナーをまわって、上り勾配《こうばい》のゆるやかなホームストレッチにさしかかった時、おれは六番めを走っていた。ここからは五〇七メートルの直線コースである。  先頭はシンゲツと、その外側を走っているもう一頭、グリーンスターはその二頭から、約三馬身遅れて走っていた。  おれは、けんめいにとばした。  観衆の声は今や轟音となり、おれの鼓膜をつんざいて、それがおれに改めて、ああ、おれは今、馬となり、ダービーに出場しているのだなと思い出させてくれた。そうだ。おれはダービーに出場しているのだ。だーびーニ出テイルノダ。  四番手の馬とグリーンスターを、おれは内から追い抜いた。この二頭は、おどかさなかった。あとからついてこい、というように、おれはグリーンスターの前に出た。さらに、先頭の二頭を追いあげた。グリーンスターを二着にするためには、この二頭を脱落させなければならなかった。  シンゲツを内から追いあげ、おれはその耳もとへ咆哮した。 「がおう」  シンゲツはとびのき、外側の馬とぶつかり、転倒した。おれはグリーンスターをしたがえてゴールインした。    *  一八九〇年に Berlin にてOsten が馬に計算ができるように調教することに成功したと、当時騒がれ、後に Krall(一九一二)はさらに巧妙に馬を調教し、学者馬として評判をとったが、ともに調教者の態度、顔色や周囲の気配に反応せるに過ぎず。(山内年彦『動物心理学』)    *  一部ではおれの優勝を八百長だと騒いだ者もいたらしいが、薬物検査でも、パトロール・フィルムからも異常を見出せず、レース中にライオンの声が聞こえたといった二、三人の騎手のことばも、問題にされることはなかった。おれに乗った島原が競馬界でも有名なマジメ人間でとても不正をするような男ではないと皆が判断したからでもある。  ただ、おれ自身、ライオンの真似をして優勝したことで、なかなか自分でもすっきりした気持になれなかったが、あの場合はしかたがなかったのだと自分にいい聞かせることによって納得した。事実その後は、ほとんどレースで実力による優勝を得たし、菊花賞でも天皇賞でも、小細工をやらずに優勝したのである。おれは馬として、最高の名誉を得ることができ、檜垣の財産は莫大なものになった。その半分はおれのものなのだ。  天皇賞直後、おれは競馬界脱退を決意した。今まで馬としてかせいだ金で、今度は人間として遊びたくなってきたからでもあるし、そろそろ人間の女が抱きたくてしかたがなくなってきたからでもあるし、馬としてのおれの経験を小説として書きたいという、久しぶりの創作意欲が湧いてきたからでもある。  そのことを檜垣と藤川に打ちあけると、さっそく二人はいろんな手配をしてくれた。  まず、ダイマンガン病気のニュースを流し、おれを入院させた。もちろん、下村博士の病院である。そして数日後、ダイマンガン死亡をマスコミに発表した。  それと平行して、おれの指定したある人物を誘拐し、病院へつれてきた。下村博士はその人物の脳をとり出し、彼の肉体におれの脳を移植した。その人物の脳は、もちろん闇から闇へ葬られてしまった。かくしておれは二年ぶりに人間に戻った。檜垣がおれのために預金しておいてくれた金は数億もあった。  おれが化けた人物——その人物とは誰か。読者諸君も、もううすうすおわかりのことと思う。  左様。おれのえらんだ人物とは、若くて健康で、しかも好男子で、おれの経験を小説として書いても何ら不自然には思われないような作家で、しかも若手として前途有望と見られているSF作家、つまり筒井康隆その人だったのである。これ以上適当な人物は他にはいなかった。その証拠に、この小説をここまで読んできたあなたにしても、これが事実のことか架空の話なのか、まだ決めかねているのではないか。まあ、これをフィクションだと思われるのなら、それでもよろしい。  かくておれは、SF作家筒井康隆として生まれかわり、人生を再出発した。この男のことは前からよく調査してあったから、馬になった時ほどまごつくことはなかったし、おれが松浦透であった時と同じ職業なのだから、もともと知人のほとんどが共通だったという利点もあって、おれは今までのところ、わりとうまく化けおおせている。  ただ、売れっ子作家だけあって原稿の依頼が多く、結局はおれが以前そこから逃げ出した、「締切に追いまくられる生活」に舞い戻ることになってしまった。しかし今度は数億という金があるわけだから、生活のために仕事をするのではなく、その点ずっと気が楽である。  あの虹子は、おれの新しい肉体の若さと美貌を利用して誘惑し、いったん恋人にしてから、手ひどい振りかたをして復讐してやった。高慢ちきな鼻をへし折り、自尊心をズタズタにしてやったのである。  おれは豪遊した。毎夜新しい恋人を作り、酒に酔い、海外旅行を楽しみ、好き勝手仕放題のことをして人生を楽しんだ。ただ、なぜか競馬だけは、二度とやる気になれなかった。    *  人間(Man)〔名詞〕自分の心に描くおのれの姿に恍惚として眺め入っているために、当然あるべきおのれの姿が目に入らない動物。(A・ビアス著『悪魔の辞典』) ウィークエンド・シャッフル 「今日はご近所、みなお留守《るす》なのよ」  コーヒーを飲みながら朝刊を読んでいる夫の章に、暢子《のぶこ》はそういった。「岩波さんも角川さんも、河出さんも徳間さんも、潮《うしお》さんも早川さんも、みんなみんなお留守」くすくす笑った。「お郷里《さと》へ帰ったり、香港《ホンコン》へ買物に行ったり、温泉へ行ったり、学会へ行ったり、会社の海の家へ行ったり」よく陽のあたるヴェランダの椅子の上で、彼女は背伸びをした。「静かでいいわ。へたくそなピアノも聞こえてこないし」くすくす笑った。 「南無妙法蓮華経も聞こえないしな」と、章が調子をあわせた。 「あの猛烈な嗽《うがい》の音も聞こえないし」 「怒鳴りあいの声も聞こえないし」 「モダン・ジャズのレコードも聞こえないし」 「子供の声も聞こえないし」 「えっ」章のことばに、暢子は一瞬はっとして耳をそばだてた。「あら。本当だわ。茂の声が聞こえないわ。またどこかへ出て行ったんじゃないかしら」不安そうに、彼女は立ちあがった。 「ひとりで遊んでるんだろ」章が新聞から眼をはなした。「声が聞こえないのはあたり前さ」 「ううん。あの子、ひとりごとを言って遊ぶの」ヴェランダのガラス戸を開き、暢子は庭を見まわした。「いつも何か喋《しゃべ》りながら遊んでいるわ。はいはいわたしはイヌのおまわりさんです。工事中ですから電柱の下を歩かないでください。あの子はもう学校から帰りましたか。学校では今何をやってますか。学校は今、火事です。先生は何してるんですか。先生は死んでいます。もうじきガスが爆発します。こっちへこないでください」 「そういえばそうだな。それはおれもよく聞く」章は立ちあがった。「玄関の方にいるんじゃないか」 「見てくるわ」茂、茂と叫びながら暢子は玄関から出て行き、すぐヴェランダから入ってきた。「いないわ。家の前の道路にも、家の横手にも」 「おれが捜してくる」テーブルの上の煙草とライターをポケットへ入れながら章はいった。 「いつも、どこまで行くんだ」 「上の公園へ行ったんだわ。きっとそうよ」暢子は自分のことばに自分でうなずいた。「お願い。捜してきて。わたしそろそろ、掃除しなきゃいけないの。今日、女子大時代の友達が三人くるから」 「気をつけとかなきゃだめじゃないか」章はぶつぶつ言いながら、玄関から出て行った。「まだ五歳なんだぞ」  コーヒー茶碗《ぢゃわん》を片づけてから、暢子は掃除をはじめた。台所、食堂兼用のヴェランダ、ヴェランダから玄関に続く廊下、廊下の右側の寝室、廊下の左側の応接室兼用の書斎、若いサラリーマンの家としては恵まれすぎているほどの広さで、だから掃除には時間がかかるが、暢子はさほど面倒と思わない。やさしい家庭的な夫、利口で可愛いひとり息子、新しいモダンな一戸建ち住宅、誰もが羨《うらや》む幸福な家庭であって、これで不服を言っては罰《ばち》があたる。  一階の掃除を終え、二階の四畳半と六畳の日本間へ電気掃除機を運ぼうとした時、応接室の電話が鳴った。昼ごろ来ることになっている女子大時代の友人の誰かからだろうと思いながら、暢子は応接室に入り、章の机の上の受話器をとった。 「もしもし。斑猫《はんみょう》でございますが」 「ああ。奥さんかね」突然、黝《くろ》い男の声が不吉感とともに暢子を襲った。「旦那《だんな》はいないの」  上品で暖かい平和な家庭とはまるで無縁な、乱暴で卑しい口調の男の声は、暢子に覆いかぶさってこようとしている不幸の影を濃く背負っているように思えた。 「主人は今ちょっと、出かけておりますが」強い精神打撃の予感が、すでに暢子の下半身を痺《しび》れさせていた。「どちらさまで。あの、ご用件は」 「じゃ、しかたがないな。奥さんでもいいや。そのかわり、よく聞いてくれないと困るよ。実はね、あんたの子供を預ってるんだ。誘拐《ゆうかい》だよ。わかるかい。おれ、あんたの子供を誘拐したんだよ」  瞬間、暢子は、デジャ・ヴュを起した。こんなことがいつか前にもあった。あの時わたしはどうしただろう。あの時はどんな結果になっただろう。その結果をわたしは知っている。だが、思い出せない。  悪質な冗談だと思おうとした。だが男の声の調子から、暢子は直感でそうではないことがわかっていたし、そう思って瞬時己れを胡麻化《ごまか》したところで、やがて次つぎとやってくるであろうさらに強烈な打撃のクッションにはならない。 「どうした。気絶したのか。気絶なんかしないでくれよ。まだ話は終ってないんだからな。外へ見に行っても無駄だよ。捜しまわったってだめだ。ここはお宅からだいぶ離れているし。おい。どうした。なぜ黙っているんだ」黝い声に苛立《いらだ》たしさが加わった。「そこにいるのか。返事しろ」 「聞いています」掠《かす》れた声で、暢子は押し出すように答えた。  受話器の中で、ぶうんという低い機械的な音がしていたが、それが暢子自身の耳鳴りなのかどうか、彼女にはわからなかった。 「落ちついているな。よし。じゃ、言うぞ。三百万円用意しろ。三百万円だ。警察に電話しちゃいかん。親戚《しんせき》にもだ。近所のやつらにも喋《しゃべ》っちゃいかん。騒いじゃいかん。わかったか」声が次第に早口になった。「今日は近所のやつらが誰もいないことはわかっている。旦那は今日は休みの筈《はず》だが、どこへ出かけたんだ」 「あの、茂は」涙がこみあげてきて、鼻がつまった。「茂はそこにいるんですか」  男は舌打ちした。「女はこれだからいやだ。泣くな。泣いているやつと話はできん。電話を切るぞ」 「主人は子供を捜しに出たんです」暢子の声はヒステリックにはねあがった。「もう、だいぶ前に出かけたんです。それよりも茂の声を聞かせてください。そこにいるんでしょう」 「そうか。本当におれが誘拐したのかどうかを知りたいわけだな。よし。聞かせてやる」  男の掌《て》が送話口を塞《ふさ》いだらしく、しばらく、あのぶうんという唸《うな》りは聞こえなくなった。暢子の耳鳴りではなかったらしい。  やがて小きざみな息遣《いきづか》いとともに、まぎれもない彼女のひとり息子の声がはっきりと聞こえた。「ママ」 「茂」と、暢子は叫んだ。胸がいっぱいになった。膝《ひざ》が、がくがくした。 「あ。ママ。ママ」茂があわてて何か言おうとしている気配だった。  だが、また男の掌が送話口を塞いだ。受話器を耳に押しあてたまま膝を折り、暢子はカーペットの上に坐《すわ》りこんでしまった。何も考えられず、彼女の頭の中にはいつもの茂のひとりごとが意味なくくり返され続けているだけだった。「はいはいわたしはイヌのおまわりさんです。はいはいわたしはイヌのおまわりさんです」 「おい。聞いてるのか。おい」  男の声が怒鳴り続けていることに気がつき、暢子ははっとして身をのけぞらせた。「はい。はい。聞いています」聞かなきゃいけないわ、と、暢子は思った。この男の言うことを一言一句洩らさず聞かなければ。わたしは落ちついているかしら。落ちつかなきゃいけないのだわ。ええ。わたしは落ちついてるわ。落ちつけ、落ちつけって、自分に言い聞かしているくらいだもの。そう。わたしは落ちついてるわ。 「子供が見つからないから、旦那はすぐに帰ってくる筈だ」男がゆっくりと喋りはじめた。「そしたらすぐ、おれから電話があったことを言うんだ。そして三百万円、いそいで用意させろ」 「三百万円」はじめて金額の非現実性に気づき、暢子は思わず叫んだ。「三百万円なんてお金、そんなお金、ありません。ありません」彼女の声は次第に悲鳴に近づいた。「わたしの家はただのサラリーマンなんです。そんな、三百万円なんてお金」 「嘘《うそ》をつけ」男が大声で怒鳴り返した。 「あ」暢子の耳がじいんと鳴った。 「出たらめを言うな。そんなでかい家に住んでいて、三百万円ぐらいの金、ないわけがあるか。だいたいサラリーマン風情がそんな家に住めるもんか」狙《ねら》うべき家庭を間違えたとは認めたくないらしく、男はむきになって叫び続けた。「はじめは一千万円吹きかけようかと思ったんだが、身代金《みのしろきん》が高すぎてもし払うあてがないと警察に連絡されるおそれがあるから、三百万円に負けといてやったんだ。亭主にそう言え。何がなんでも三百万円用意しろとな。受取る方法はあとでまた連絡する」 「ああああ」すすり泣きと同時に暢子の咽喉《のど》から絶望の呻《うめ》き声が洩れた。 「なんだ。どうした。今の声は何だ」 「お金、ありません。お金、ありません」狂気のように髪を振り乱し、暢子ははげしくかぶりを振った。「銀行には四十万円足らずしかありません。本当です。この家はこのあいだ建てたばかりで、お金はほとんど使ってしまったんです。本当です。本当です。ああああああ」暢子は泣き崩れ、カーペットに顔を伏せた。  男がまた舌打ちした。「泣くな。泣くと電話を切るぞ。子供がどうなってもいいのか」 「やめて」暢子は悲鳴まじりに叫んで、また背をのけぞらせた。「茂に何もしないでください」 「黙れ。うるさい。おれに命令するな。おれは人から命令されるのが大嫌いなんだ」男はそう吠《ほ》えてから、呟《つぶや》くようにいった。「商売で儲《もう》けている家だとばかり思っていたんだが」いささか途方に暮れているようでもあった。「サラリーマンが、なぜそんなでかい家に住んでいるんだ」 「茂はどうしていますか」暢子は手の甲で頬《ほお》の涙を拭《ぬぐ》いながら訊《たず》ねた。「泣いてはいませんか」 「とにかく、亭主が戻ったら三百万円用意しろといえ。わかったか」男は気をとりなおした様子で、決然とそういった。「さもなければ子供を絞め殺す」 「やめて」と暢子は叫んだ。「お願いです。お慈悲です。それだけはやめてください」 「おれの言うことを聞け」男がまた怒鳴った。「金を都合するのは男の役目だ。あんたが心配することはない。旦那は、なんとか掻《か》き集めてくるだろうさ」男は考えながら、自分を納得させるようにいった。「若いサラリーマンのくせに、そんなでかい家を建てるほど甲斐性《かいしょう》のある旦那だものな。銀行へ行って借りるなりなんなり、するだろうさ」  週末だ、ということに気がつき、暢子はあわてて言った。「でも、あの、今日は土曜日であの、銀行は」 「昼までだ」男が声をおっかぶせた。「そんなことぐらい、教えてもらわなくてもわかっている。しかし、まだ十一時だ。時間はある」男の声は急に陽気になった。「こっちはちっともいそがないんだぜ。月曜まで待ったっていいんだ」わざとらしく笑った。笑い声も黝《くろ》かった。「その間、子供を充分可愛がってやるからな」 「子供を返して。子供を返して」暢子は泣きじゃくりながらそうくり返した。自我が崩壊しそうになっていた。 「よしよし。泣きなさんな。泣きなさんな」嬲《なぶ》るような口調で男がいった。「おれは子供の扱いかたはうまいんだ。心配するな」笑っていた。  男のサディスティックな眼つきが暢子には想像できた。 「また電話する」と、男がいった。 「あっ。ちょっと待って」しがみつくように暢子は両手で受話器を握りしめた。男と話し続けていなければならないような気がした。「待ってください」 「なんだね」男は落ちつきはらっていた。 「あの、あの」言うべきことが、暢子には思いつかなかった。「あの、そこはあの、どこですか」 「馬鹿」がしゃ、と、男が電話を切った。  受話器を架台へ置くなり、ふらりとした。今、貧血を起したりしてはいけない、と、暢子は思った。そんなこと、している暇はないんだわ。考えなければ。どうしたらいいかを考えなければ。  うずくまるような姿勢で彼女はソファに腰をおろした。警察へ電話をしなくていいのだろうか。彼女はそう思い、章ならどうするだろうと考えた。とにかくあの人に相談しなくては。とにかくあの人に。ああ。なぜ早く帰ってこないの。何してるの。茂が見つからないのなら、すぐ戻ってくればいいのに。どこまで捜しに行ったのかしら。ああ。あなた。早く戻って。早く戻って。 「早く戻って。早く戻って」いつの間にか大声でそうくり返している自分に気がつき、暢子はどきりとした。わたし、気が違うのかしら。このまま、少しずつ狂いはじめるのかしら。  のろのろと、暢子は部屋の中を見まわした。大きな部屋。落ちついた建材。凝《こ》った内装。高価な家具、あの人の家とわたしの実家がお金持ちだったからいけないんだわ。だからこんな分不相応な家を建ててしまったのよ。だから憎まれて、嫉《ねた》まれて、それで茂を誘拐されてしまったのよ。  実家のことを思い出し、暢子は両手を膝の上で握りしめた。駄目。電話しちゃ駄目。いくら淋《さび》しくても耐えなきゃいけないんだわ。電話で父や母に泣きつくことはできないんだわ。親戚に電話するなって、犯人が言ってたじゃないの。電話したりしたら、父と母が驚いてとんでくるわ。そしたらたちまち犯人にわかってしまう。そして犯人は茂を。 「茂」声に出してそうつぶやき、暢子ははじめて本格的に泣いた。夢だったらいいのに、彼女は切実にそう思った。ぱっと眼が醒《さ》めてほしい、彼女は切実にそう願った。家の中はしんとしていた。家の近所もしんとしていた。ちょっと泣きやんで耳をすましたが、章が帰ってきたような気配はなかった。暢子はまた改めて泣こうとし、すぐにはっとして眼を見ひらいた。実家に電話しちゃいけないのなら、いったいどうやって三百万円もの大金を用意できるのだろう。犯人にわからないようにこっそり電話したところで、そんなにたくさんの現金、実家にだってないに決っている。ではあの人の両親の家には。  駄目。とても電話なんかできないわ。暢子は一瞬身をふるわせ、かぶりを振った。茂を舐《な》めるように可愛がっていた章の父と、暢子には意地の悪い章の母が、憎悪に燃えて自分を睨《にら》みつけるその恐ろしい顔が想像できた。 「暢子さん。これはあんたの責任だ」 「まあ気楽なひと。子供をひとり外へ出して、あなたはいったい何をしてらしたの」  駄目よ。駄目よ。どこへも電話しては駄目。そう。どこへも電話するなって、犯人が言っていたじゃないの。だいいちあの人の両親なんて、三百万円もの大金、とても用意できそうにないわ。いつだって、お金がない、お金がないって口癖のように。  暢子はまた室内を見まわした。この家を建てたお金が千二百万円。あのお金が今あったら。ああ。あのお金が今あったら、少くともお金の心配だけはしなくてすんだのに。でもおかしいわ。それならこの家を建てる時、どうしてあんなにお金があったのかしら。わたしの実家からあは五百万円もらっただけなのに。あと七百万円のお金、あの人いったい、どうやって、どこから工面してきたのかしら。貯金はそんなになかった筈だし。  暢子はふらふらと立ちあがり、章の机の抽出《ひきだ》しから預金通帳を出した。ほうら。あの頃やっぱり百五十万円しか貯金していなかったんだわ。あとの五百五十万円はどうしたのかしら。あの人はお父さんから貰《もら》ったなんて言ってたけど、よく考えたらあの人のお父さんはサラリーマンだし、商売をやってるわたしの実家と違って、そんなにお金を持ってるわけないんだわ。じゃ、会社から借りたのかしら。わたしの実家がたくさんお金を出したものだから、わたしが威張るといけないと思って、会社から借りておきながら、お父さんから貰ったなんて言ったのかしら。それにしても、あの人の会社がそんなにたくさんのお金を貸してくれるかしら。  たしかにあの人のお給料は、平均よりずっといいわ。暢子はそう思いながら応接間を出て寝室に入り、三面鏡の前に腰かけ、丹念に化粧をはじめた。彼女は鼻歌をうたっていた。そりゃそうよ。だってあの人、秀才だもの。総務部一のエリート社員だもの。ただのサラリーマンとはわけが違うわ。それにあの人の会社は一流企業だし、それくらいのお金、貸してくれて当然なんだわ。あたしって本当にしあわせ。大きいモダンな家。エリート社員で家庭的な夫。健康で可愛らしくて頭のいい茂。 「茂」暢子は悲鳴をあげて勢いよく立ちあがった。膝が鏡台にぶつかり、ファンデーションとオキソトーナーとアイライナーが床にころがり落ちた。「茂。どこにいるの。茂」  暢子はいそいで寝室を出ようとした。なぜかさっきからちっとも姿を見せない茂を外へ捜しに出かけるつもりだった。だが彼女は寝室から廊下へ出るなり、玄関の方からやってきた誰かと激しくぶつかった。 「あっ。あなた」瞬間、夫が戻ってきたのだとばかり思って暢子はそう叫んだ。しかしそれは章ではなかった。 「や。家に居やがったのか畜生。今日はこのあたりの家はみんな留守と聞いたのに」腹立たしげにそう叫んだ色黒の若い男が、あわてきった仕草でセーターをまくりあげ、ズボンの中へさしこんでいた短刀を引っこ抜いて暢子に突きつけた。「声を立てるな。声を立てるとこいつであんたの顔にたくさん赤い筋をつける。死ぬまで消えない筋だ。もうわかっただろうがおれは泥棒で、本当はこそ泥なんだが、狙った家に人がいた場合はいつでも強盗に早変りすることにしている泥棒で、前科は四犯、人間もひとり殺しているから、とにかく金を出せ。ほんとはこういうでかい家へ空巣《あきす》に入ると金のあり場所を捜すのに手間がかかるから、おれはなるべくアパート専門に入っているんだが、今日は町で偶然出会った仲間のひとりから、この辺の家がみんな遊びに出かけて留守と聞いたもので、ゆっくり仕事するつもりでやってきたんだ。留守番がいたとは知らなかった。ばったり出会ったのでしかたがないから今はまあこうやって脅《おど》しているが、騒ぎさえしなければ殺しもしない怪我《けが》もさせない、あんたの貞操も保証する。ほしいのは金だけだ」  泥棒がまくし立てている間に、暢子はゆっくりと廊下に尻を落し、正座した。「ではあなたは、ただの泥棒だったのですね」暢子はうなずいた。「お金がいるのですね」すすり泣いた。「そのお金が、ないんです。今日中に三百万円いるんですけど」首を傾げた。「おかしいわ。なぜ三百万円もいるのか、今ちょっと思い出せないんだけど」 「ふん。金持ちってものは、とかくそういうものなんだ」泥棒がにくにくしげにいった。「現金はあまりあてにしていない。洗いざらい持って遊びに出ているだろうと思ってな。だから宝石類を狙ってやってきた。宝石から足がつくおそれはまったくないんだ。おれ、いい故買屋を知っていてね。しかし留守番がいる限り、現金だって少しはあるだろう」 「三百万円なんて、とてもありません」暢子はかぶりを振って泣きじゃくった。金のないことが、なぜか無性に悲しく、腹立たしかった。「そんなお金、とても」 「いいかね。あんた」泥棒がしゃがみこんで暢子の顔をのぞいた。「三百万円ってのは、さっきあんたが口にした金額だ。おれは別にそんな大金を寄越せなんて言っちゃいない。わかるかね。あるだけの金でいいんだ。それと宝石類だ。こんないい家に住んでるくらいだ。宝石、貴金属類もたくさんあるだろう」 「あああああああ」暢子はだしぬけに両手を天井に差しのべ、髪振り乱して嘆き悲しんだ。「わたし、しあわせだと思っていたのに。こんなに大きいモダンな家。エリート社員で家庭的な夫。可愛くて頭のいい息子。みんなみんな恨めしいわ。今となってはこのしあわせが恨めしい」  泥棒は一瞬ぎくとして床にうしろ手をついてから、尻を据《す》え暢子と向かいあって正座した。「泥棒に入られたぐらいでそんなに嘆き悲しむことはないだろう。一度や二度泥棒に入られたからって、しあわせが全部まとめてぶち壊れるわけではないだろうに。なぜしあわせがそんなに恨めしいんだ」  暢子はじっと泥棒の顔を見つめた。「なぜだか、とっても悲しいの」  泥棒はつくづくと暢子の顔を眺めていたが、やがてほっと溜息をつき、彼女を凝視し続けながらいった。「おれ、あんたみたいな美人、初めて見たなあ」  暢子は頬を引き攣《つ》らせ、あわてて立ちあがった。「何ですって」  泥棒もあわてて立ちあがり、弁解した。「いや。心配しなくていい。な、な、何もしないから。何もしないから」  泥棒が肩にかけようとした手を、暢子はひいっと咽喉の奧を鳴らして払いのけた。「何するんですか。やめて。やめてください」声うわずらせてあと退り、彼女は寝室へ入った。  泥棒も入ってきた。「なんだよう。おれは心外だ。なぜそんなに警戒するんだよう。そんな妙な声出したら、ほんとに何かしたくなっちゃうじゃないか」と彼は部屋を見まわし、ぎょっとして立ちすくんだ。「あ。こ、ここは寝室」  その声ではじめて自分が寝室へ追いつめられたことを知り、暢子は悲鳴をあげ、さらに部屋の奥へあと退ろうとし、ベッドに足をとられ、掛布団の上へ仰向きに引っくり返った。スカートがまくれあがり、彼女の白い太腿《ふともも》は泥棒の眼を射た。 「やめろ。おれを誘惑する気か」眼前の妖気《ようき》を払いのけようとするかのように、泥棒ははげしく両手で宙を引っ掻いた。しかし彼は自分の視線を、寝室のほのかな明るみに浮かびあがっている暢子の太腿からひっぺがすことができなかった。「お、おれは仕事熱心な泥棒だ」一歩進んだ。「そ、そんなことはしたくない。そんなことはしたくない」  暢子はいそいで立ちあがろうとし、同時に、スカートの乱れた裾《すそ》をもとへ戻そうとしたが、一度に両方をやろうとしたためベッドから床へ俯伏せに転落した。スカートが完全にまくれあがって尻が剥《む》き出しになり、純白のパンティが丸見えになった。 「あは」泥棒は眼を見開き、胸を掻きむしった。「やめてくれ」一歩前進した。「やめてくれ、おれは女房を愛している。今まで一度も浮気をしたことはないのだ」さらに一歩前進した。  立ちあがった暢子の鼻さきに、眼を充血させて激しく息をはずませている泥棒の顔があった。 「あ。やめて」と暢子は叫び、ほんの一瞬貧血を起してふらりとし、色黒で若い泥棒の頑丈な部厚い胸の中へ倒れこんだ。 「あい子。あい子。許してくれ」泥棒は妻の名を連呼しながら暢子の華奢《きゃしゃ》なからだを力いっぱい抱きすくめた。  作者が二十八行削除した時、泥棒はすでに自分のズボンをはき終っていた。 「すまなかったな」と、彼はいった。「こんなことになるなんて、夢にも思っていなかった。もちろんあんただってそうだろうがね。責任をとる、といいたいところだが、おれはもともと泥棒だから責任をとれる立場にはないわけで、これはどうにもならん。せめて金品を奪うのをやめることで誠意を示しておきたい。だけどあんたも少しはおれを誘惑したわけであって、今のことに関してはお互い様ということになると思う」  のろのろとパンティをはいている暢子を横眼で見ながら、泥棒は寝室内を歩きまわった。 「これはほんとに運命のいたずらで、そして偶然のなせる業《わざ》だ。だってあんたは途中で旦那の名を叫んだし、おれも妻の名を呼んだ。そのことであんたとおれの精神的純潔は証明できる。そうだろ。はははははは」泥棒は、なぜか一瞬照れて頭を掻いた。「おれの喋りかた、ちょっと変だろ。よくひとからもそう言われるんだ。お前のものの言いかたはまわりくどくってわかりにくいってね。何、おれは自慢するわけじゃないが、大学の文学部出てるんだ。友達に文学青年が多かったもんで、それでこんなインテリ臭い単語を好んで使うんだ。もっとも最近は大学出てることが必ずしもインテリってことにはならないし、その証拠におれなんか泥棒やってるもんね。しかしね、おれはつくづく思うんだが、誰でも彼でも大学に入《い》れるという今の傾向はよくないね。大学出といっても実質的にはピンからキリまであるんだが、キリの方から見りゃあピンと自分との実質的な差はわからず、エリートであるピンの社会的成功をわが身の不遇と比べてはまことに不公平であると思って羨《うらや》むわけだな。ピンがマイホームを建てたからというんで自分もマイホームを建てようと不自然な努力をして失敗し、ますます世を拗《す》ねる。いや何これは実をいうとおれのことなんだ。ピンというのはたとえばあんたの旦那みたいに若くしてこんなでかい家を建てた人のことをいうんだ。あんたの旦那を見たことはないが、きっと大学出だろ。もちろん若いんだろ。そしてエリート社員か何かだろう。そうだろうともさ。おれは今になってそういう連中と自分の差にやっと気がついたんだが、たとえおれがそれに気がついても、たとえば大学出ということに過剰な期待をかけておれと結婚したおれのデブの女房なんてものにはそんなことはわからないわけで、エリートの家庭を見てそれが世間並みの暮しだと思いこみ、おれの甲斐性なさにいらいらしておれに能力以上の収入を求める。大学出のキリがエリート並みの収入を得て分不相応なマイホームを建ててそれを維持していこうとすれば何をすればよいかというとこれはもう悪事をするより他に方法がないわけで、だからこうやって泥棒をしているわけだが、泥棒に入るのにこの家を選んだのは別にあんたの旦那の身分やこの家庭のいい暮しを嫉《ねた》んだり羨んだりしたからじゃない。あんたの旦那はおそらくピンの方の大学をピンの成績で卒業したんじゃないかと思うよ。たとえそうでなくても、あんたの旦那の才覚でもって正当に金を儲《もう》けてこんな立派な家を建てたんだろうから、それを嫉んだり羨んだりするのが間違いだってことは、おれにはよくわかっている。おれだって大学を出て以来八年、何度も仕事をしくじったり勤め先を馘首《くび》になったりしてそれなりに苦労してきたんだものな。最初は僻《ひが》んでいたが、今じゃそれくらいはわかる年齢になったんだ。もっともおれの年齢になってもまだいろんなことを知らない馬鹿はいるがね」泥棒はひとりうなずきながら暢子に訊ねた。「煙草あるかい」 「応接室にあるわ」暢子は先に立って泥棒を応接室に入れた。  彼女は今、まとまったことを何ひとつ考えられない状態にあり、ぼんやりとさっきの泥棒との行為を反芻《はんすう》し、夫の章とのそれと比較していた。 「なんだか、とてもむずかしい問題があるのよ」泥棒がくわえた煙草に卓上ライターで火をつけてやりながら、暢子はいった。「あった筈なのよ。あなたがいるから思い出せないんだわ。早く帰ってよ」 「うん。あまりながく邪魔しても悪いな」泥棒は腕時計を見た。「そろそろ失礼するか」  いったんソファに落ちついた泥棒が、くわえ煙草のまま立ちあがった時、ドア・チャイムが鳴った。 「ん。誰だ。誰だ。誰だ」泥棒は急にあわてふためき、あたりをうろうろと歩きまわった。 「短刀がない。おれの短刀をどこへやった」 「寝室でしょ」  泥棒は寝室に置き忘れた短刀をとってあたふたと戻ってくると、尖端《せんたん》を暢子の腰に突きつけた。「たとえ誰であっても絶対に中へ入れちゃいかん。帰ってもらうんだ。いいな」  泥棒に背後から尻の割れめあたりへ短刀の切っ先を突きつけられたまま、暢子は玄関の方へ歩き出した。「でも、主人かもしれないわ」 「旦那がどうしてドア・チャイムなんか鳴らすんだ」 「鍵《かぎ》を持たずに出たの」 「おれは玄関のドアの鍵をこじあけたが、中からロックした憶《おぼ》えはないぞ」 「玄関のドアは、閉まると勝手に鍵がかかるのよ」暢子は三和土《たたき》へおり、ドアの手前で、ぴったりと自分の背中にへばりついている泥棒を振り返った。「もし主人ならどうするの」 「その場合はしかたがないな。中へ入れろ」泥棒が身構えた。  暢子が把手をまわした途端、外側から強い力でぐいとドアが押され、歓声をあげて三人の女が否応なしに三和土へ雪崩《なだ》れこんできた。 「こんにちわあ。まああ。すばらしいお宅じゃないの」 「立派だわあ」 「うわあ。暢子、ずいぶん痩《や》せたわねえ」  玄関ホールのあちこちを好奇に満ちた視線で無遠慮に眺めまわしながら、三人の若い女は口ぐちに暢子へ話しかけた。 「ご免なさいね。遅かったでしょう。由香がいけないのよ。待ちあわせた喫茶店へ二十分も遅れてやってくるんだもの」 「ああら。だから説明したでしょ。主人が離してくれないのよう」 「ほうらね。これなんだから」  茫然《ぼうぜん》として立ちすくんでいる暢子にはおかまいなく、三人は野鳥の群れの如くけたたましく笑った。 「ううん。そうじゃないのよ。せっかくの週末なのに亭主を抛《ほう》っといてどこへ行くんだって、大変なおかんむりでさあ。あらっ」由香と呼ばれた和服の女が暢子の背後で凝固している泥棒に気がつき、あわてて一礼しながら急にしとやかな声を出した。「まあ。ご主人ですか。初めまして。わたくし木谷でございます。奥さまとは短大時代にテニス部でずっとご一緒させていただきましたの」 「あっ。あのう、わたくし三宅とも子と申します」色の黒さを胡麻化《ごまか》すため白塗りに近い化粧をした、やはり和服の女がしゃしゃり出て、がらがら声を出した。「ご主人さまのことはいつも電話でおノブから、いえ、暢子さんから」 「いえあの。は。そうですか」泥棒は短刀を背にまわし、ズボンのベルトへはさみこもうとしながらぺこぺこ頭を下げた。「こちらこそよろしく。はい。わたしもあなたがたのことはその、いつもこのひとから。いえあの、奥さんから。いえ、妻からその」 「住之江淑《よし》でございます」やたらに背の高い地味なツーピースの女が、じっと泥棒を見つめて言葉少なにそう挨拶《あいさつ》した。 「まあ。広いのねえ。わたしの家とは大変な違いだわ」勝手にあがりこんで廊下に立ちはだかり、あたりを見まわしながら由香が大声を出した。「うちはマンションなのよ」 「お、おい。何ぼんやりしてるんだ。早く応接室へお通しせんか」突っ立ったままの暢子を、おろおろ声で泥棒が叱《しか》りつけた。「さあさあ。どうぞおあがりください。汚いところですが。さあどうぞ」 「あがって頂戴」暢子はやっとそう言ってうなずき、無表情なままで三人の同窓生を応接室へ案内した。「こちらへどうぞ」 「愛想のいい、やさしそうなご主人じゃないの」廊下を歩きながら、とも子が暢子の尻を小突いた。「あなた、お尻に敷いているんでしょう」  応接室に入った三人の女がひとしきり誇大な表現と声色で家具調度を褒《ほ》めちぎり、それぞれソファに腰を落ちつけた時、泥棒がいらいらしながら暢子に命じた。「おい。お前。どうかしてるぞ今日は。お客様にお茶を出さんか。お茶を」 「あ。そうね」  機械的に立ちあがろうとした瞬間、暢子は突然、何もかもが面倒臭くなってしまった。わたしはいったい何をしているのだろう。おいお前。早くお茶。早く掃除しろ。おいお茶。お客様。お客様。そんなことが何になるんだろう。世間とのおつきあいに過ぎないんだわ。世間とのおつきあいって、いったい何。何のために今まで、そんなことをしてきたのかしら。そんなものが家庭の平和や幸福を維持してくれるなんて幻想だわ。家庭の平和や幸福なんてそんなものとは何の関係もなく、崩れる時には勝手に崩れてしまうものなのに。いつもいつも世間とのおつきあいのために主人から命令され、こき使われて。それがいったいわたしにとって何になったというの。しかもこの男は何。この男はわたしの主人ですらないじゃないの。なんのためにこんな男にまで命令されなきゃならないの。そうだわ。よく考えてみればこの男、ただの泥棒だったんだわ。わたしと肉体関係を結んだという点が他の泥棒とちょっと違うだけで、本質的には単にひとりの泥棒よ。その泥棒までがどうしてわたしに命令するの。 「おい。どうかしたのか」考えこんでしまっていつまでたっても台所へ行こうとしない暢子に不安そうな眼を向けて、泥棒が訊ねた。「なぜ行かない」  三人の女も、不審の眼で暢子の様子を観察した。 「わたし、行かないわ」暢子は投げやりにそう答え、ソファに身を沈めた。「あんた、行ってきてよ」  女たちが驚きの眼で暢子と泥棒を見くらべた。 「な、何いってるんだ」泥棒が暢子の突然の開きなおりに驚き、どぎまぎした。  暢子は泥棒を一瞥《いちべつ》した。「あなた、わたしがひとりで台所へ行ってもいいの」 「む」泥棒はすぐ、暢子を彼の眼の届かない台所へ行かせる危険性に思いあたって、彼女を睨みつけた。この女は勝手口から抜け出て交番へ駈けつけるかもしれない。彼はそう考えた。だからといって、彼がひとりで台所へ行き、茶の用意をしたりなどするのはもっと危険である。せっかく三人の女から、この家の主人だと思われているのに、この女は彼の正体を彼女たちに話してしまうかもしれないのだ。 「そうだね。では。ではつまりその」泥棒はしらけた場を取り繕《つくろ》おうとして部屋中に視線を走らせた。「では、お茶はやめましょう」洋酒のキャビネットに眼をとめ、彼は躍りあがった。「酒だ。酒があった。酒を飲みましょう」 「まあ。こんなお昼間から、お酒を」泥棒のあわてかたをじっと見つめながら、淑がいった。 「いいじゃないの」なぜかぶっきら棒で不機嫌な暢子の態度に困り果てている泥棒の様子にいささか同情したらしく、由香がいった。「欧米式の接待法だわ。そういえばご主人、外国旅行をまだなさってないんですってね。わたしの主人は去年会社の用事でアメリカとヨーロッパをまわって参りましたのよ」 「外国旅行なんかしたって、なんにもならないわよ」と暢子がいった。「何の役にも立たないわ」  気を悪くして黙りこんだ由香に、とも子が耳打ちした。「悪いところへ来てしまったらしいわね」 「夫婦喧嘩《げんか》でもしたんでしょ」と、由香がややきこえよがしにささやき返した。 「さあさあ皆さん。何になさいますか」キャビネットから出した各種のグラスを見さかいなしにテーブルへ並べながら、泥棒が訊ねた。「ブランデーがありますよ」 「ブランデーをいただくわ」由香が無邪気を装っていった。「だって氷も水もないんだもの、ブランデーしかいただけないわ」 「あら。氷と水ぐらいなら、わたしがとってきてあげるわよ」とも子が気さくに立ちあがった。 「すみませんねえ」ほっとした口調で、泥棒はとも子に感謝の眼を向けた。  とも子が出ていくと、淑がたしなめるように由香にいった。「あなたったら、結婚してもあい変らずね、ずけずけとものを言って」 「あら。そうかしら」由香は心外そうな顔をした。  そう。あなたはいつもそうなのよ。由香の間のびした顔をぼんやり眺めながら暢子は思った。自分のことや自分の家庭のことを自慢したいために、やたらにひとにけちをつけて、しかも自分ではそれをさほどとも思っていないのよ。つまり馬鹿なのよ。京都生まれの女は客の前へ出すなっていうのは本当ね。何を言い出すかわからないもの。あなたはきっと、よそのご主人の仕事にまで、ご当人を前にして、無邪気さを装いながらけちをつけたりもしている筈だわ。あなたはきっと、ご主人の出世の大きな妨げになるでしょう。でもね、いくら人を馬鹿にしようと試みたところで、あなたは安心してしまうことはできないのよ。今に思い知るわ。人を馬鹿にしたって、まったく、何にもならないんだから。 「さあ。ブランデーをどうぞ」泥棒が由香のグラスにだぼだぼとブランデーを注ぎ込んだ。  グラスの半分を越す量のブランデーに眼を丸くし、由香がまた何か言いかけたが、今度は暢子に皮肉な眼を向けただけで黙っていた。 「いやあ皆さん、まったくお美しい」自分のグラスにもウイスキーを注ぎ、それをひと口すすってソファに腰をおろした泥棒が、座をとりもとうとしてお愛想をいった。「お綺麗《きれい》ですなあ」 「そんなことおっしゃると、暢子さんに叱られますわよ」  その淑のことばで、不意に暢子が固い声を出した。「こんなひととは、何でもないの」 「まあっ。なんでもないんですって」由香がわざとらしく頓狂《とんきょう》な声を出した。「そんなに仲がお悪いの」 「いえいえ。仲が悪いなんて、そんなことはちっともありません」泥棒が大いそぎで否定した。「現に今だって、あなたがたがいらっしゃるちょっと前まで、その」 「やめて」さすがに暢子が顔を伏せた。 「や。これはどうも、とんでもないことを言っちまったな。あははは。は」泥棒は照れてグラスを乾した。  しばらくあきれていた由香が、ほっと溜息を混《まじ》えていった。「どうもご馳走《ちそう》さま。やっぱりわたしたち、悪いところへ来たらしいわね」うなずいた。「それで玄関へ出てくるのが遅かったのね」暢子の顔をのぞきこんだ。「おノブのご機嫌が悪いのは、そのためなのね」 「いや。いやいやいや。それは違います」泥棒は立ちあがり、あわただしく室内を歩きまわりながらいった。「そうではありません。違いますとも。あなたたちが来た時には、すでにもう終っていて。その。はははは。は。ま、どうでもいいでしょう。ところであなたは何にします。ウイスキーですか。ベルモットもありますよ」 「まったくここのお宅ったら、独身者のくるところじゃないわね」淑は顔をまっ赤にしてそう言ってから、泥棒の顔をそっと見あげて答えた。「チンザノをいただきますわ」 「へいへい」泥棒はキャビネットのグラス類を派手にがちゃつかせてチンザノの瓶《びん》をとってくると、淑の前へ置いたワイン・グラスにまたしてもどぼどぼと赤黒い液体を大量に注ぎ込んだ。「そうですか。あなたはまだ独身ですか。その方がよろしい。ええ。その方がいいです。独身時代にこうやって結婚している人間の家庭をできるだけたくさん見てまわることは、いい勉強になりますよ。結婚に失敗する率がぐっと少くなりますからね」 「はい。氷とお水」とも子がアイス・ペールと水差しを持って入ってきた。「立派なお台所ねえ。由香もお淑もちょっと見せて頂いたらいいわ。流し台がとても広くて、便利で」 「わたし、お台所にはあまり興味がないの」嘲笑《ちょうしょう》のようなものを頬に浮かべて由香がいった。「通いのお手伝いさんにまかせてあるから」 「あなたも、もうご結婚なさったのですか」泥棒がとも子に訊ねた。 「いいえ。売れ残ってます」とも子が世馴《よな》れた様子で笑った。「男性って、こんないい女を何故抛《ほう》っとくのかしら」 「まったくですな」がぶり、と泥棒はまたウイスキーを飲み乾した。「あなた、何を飲みます」 「わたし、ウイスキーをいただくわ」とも子がはしゃぎながら全員のグラスに氷を投げ込みはじめた。「さあ。どんどん飲みましょうよ。あら。由香はなぜ飲まないの。暢子さんもウイスキー飲むでしょ」 「ええ」暢子は急に決然として頷《うなず》き、不安そうな表情の泥棒をじろりと横眼で睨んだ。「飲んじゃう。みんなも飲んで。今日は週末なのよ」 「そうね。では乾杯」  女たちが飲みはじめた。  琥珀《こはく》色の液体のウイスキー・グラスに半分以上をひと息で飲み乾した暢子は、全身から力を抜き、熱いものが胃を中心にじわじわとからだ中へ拡がっていく快い気分を動物的に味わった。緊張がほぐれ、急に気が楽になり、そのはずみで笑い出したいほどの昂揚《こうよう》した気持になってきた。動物的な快感のみに身を委《ゆだ》ねてさえいれば、いったい何を気にし、思い煩《わずら》うことがあろうか。わたしは馬鹿だったわ。今まで何をあくせくしていたのだろう。流行や評判に気を遣い、友人やご近所に気を遣い、親戚や主人に気を遣って、そんなこと、もうやめたっと。 「迷子の迷子の子猫ちゃん」暢子は大声で歌い出した。 「まあ。もう酔ったの」三人の女がけたたましく笑った。 「おいおい。大丈夫かよう」泥棒はいても立ってもいられぬ様子で、暢子に心配顔を向けた。「あんまり飲むなよ」 「そういえば、坊ちゃんがいらっしゃるんだったわね」暢子の歌った童謡でやっと気がついたらしく、淑がいった。「お友達のおうちにでも遊びに行ってらっしゃるの」  そう。たしかにわたしには子供がひとりいた。暢子はウイスキーをがぶりと飲んでちょっと考えた。だいぶ以前にわたしの産道を通過したあの赤ん坊はどうしたのか。名はなんていったかしら。思い出せないわ。でも思い出すと不愉快になるから忘れましょう。大声を出せば忘れることができる筈よ。  けんめいの努力の末、暢子はまた大声をはりあげた。「はいはいわたしはイヌのおまわりさんです。はいはいわたしはイヌのおまわりさんです。学校は今、火事です。先生は死にました」 「ええと。あのう」肘掛椅子のひとつに腰をおろしていた泥棒は、うろたえてあわただしく立ちあがり、暢子にいった。「おいっ。何かおつまみがいるんじゃないかね。そうだ。おつまみがいるよ。ね、お前」  暢子は反抗的にいった。「わたしはお前という名ではございません」  暢子が女友達からなんと呼ばれていたかを思い出そうとしながら泥棒はあたりをちょっとうろうろし、それから暢子の手をとって引っぱった。「ま、いいじゃないか。何かおつまみを取りに行こうよ。一緒に。台所へ。え。おい。お前。ちょっとこいよ」 「うるさいわねえ」暢子はしぶしぶ立ちあがり、泥棒と一緒に応接室を出た。 「ね。ね。ね。きっと大喧嘩したあとなのよ。ね。そうでしょう」二人が出て行くなり、由香がそういった。「きっと、あれがうまくいかなかったもんだから、暢子がつんつんして、ご主人がおどおどしてるのよ。ね」 「そうね。それもきっと、朝早くから続いてる喧嘩よ」とも子もいった。「そのために暢子は、わたしたちが今日遊びにくるってことを完全に忘れてしまったんだと思うわ。だって、ご主人ったら、わたしたちがやってくることを暢子から、ぜんぜん聞かされてなかったみたいじゃないの」 「何も用意してないものね」と、由香が調子を合わせた。  淑もうなずいた。「そうね。それにわたし、あれはご主人じゃないと思うわ」 「え」とも子は淑のいった意味がわからず、茫然《ぼうぜん》とした。 「まあ」すぐにぴんときた由香が、からだをしゃちょこ張らせて淑を見つめた。「そういえば、でもねえ。まさか」半信半疑で、由香はゆっくりとかぶりを振った。 「暢子は忘れてるみたいだけど、わたしは以前暢子と外で会って、その時ご主人の写真見せてもらったことがあるのよ」淑はうなずいて見せた。「今の人じゃなかったわ。ぜんぜん違うタイプの人だったわ」 「じゃあ、あれは誰なのよ」とも子は眼を丸くした。 「浮気の相手よ」淑はさらりと、そういってのけた。「そうでなければ、あの男のことを旦那だといって胡麻化したりする必要はないわけだし、あのふたり、わたしたちがやってくる直前まで何かやってたに決ってるんだもの」 「ま、鋭いのね」と、由香がいった。「結婚もしてないくせに、あなた、よくそんなことがわかるのね。あなたきっと、経験してるんでしょう」 「今はそんなこと、どうでもいいじゃないの」淑はじろりと由香を睨みつけて、ぴしりとそう言った。「とにかく、おノブがわたしたちの来ることを忘れてたのは今朝からじゃなくて、おそらく二、三日前からなの。でなかったら、旦那と子供の留守中に男を家へ引っぱりこもうなんてスケジュールは立てなかった筈よ」 「ご主人と子供は、どこへ追い出したの」淑に訊ねればなんでもわかると思いこんでいるような口調で、とも子が眼を丸くしたままそう訊ねた。 「旦那の両親の家よ」淑は断定的に答えた。「おノブは旦那の両親と仲が悪いの。お爺《じい》ちゃんお婆《ばあ》ちゃんに孫の顔を見せに行くのは、いつも旦那の役なのよ」 「名探偵の推理ね」由香が厭味《いやみ》を含めてそういった。しかし彼女も淑の論理的な推理には反対のしようがなく、とも子と顔を見あわせて、しばらく茫然とした。 「でも、おかしいわ」とも子が考えながら喋りはじめた。「もしそうなら、おノブはわたしたちに、あの男の人が浮気の相手だということを隠そうとして、一生けんめい胡麻化そうとする筈でしょう。それなのに何よ。あの投げやりな態度は。あれじゃわたしたちにあやしまれてあたり前よ。事実、おノブの様子が変だったからこそ、わたしたち疑って、こうして推理しはじめたわけでしょ」 「いわゆる、うろ[#「うろ」に傍点]がきてるのよ」と、淑がいった。  由香がわざとらしく笑った。「それはおかしいわよ。だって、うろ[#「うろ」に傍点]がくるというのは、うろたえてうろうろすることでしょ。だけどおノブは、のんびり落ちついてしまってるじゃないの」 「のんびり落ちついてしまって、何もかも投げやりになってしまうという、うろ[#「うろ」に傍点]のきかたもあるの」淑はまた、憐《あわ》れむような眼で由香を見た。「心理学ではゲシュタルト崩壊っていうそうだけど、一時的な精神異常よ」 「あっ。そういえば」とも子がひょいと身を浮かした。「おノブのあんな様子、わたし前にも見たことがあるわ。あれもやっぱり一時的な精神異常だったのね。学校時代にあの子、社会学概論の試験がある日、間違えて経済学概論の勉強ばかりしてきたのよ。おノブって、ほら、わりと気が小さくて生真面目《きまじめ》じゃないの。それだけに、その反動ですっかりうろ[#「うろ」に傍点]がきてしまって、ちょうどあんな具合に何もかも投げやりになってしまったの」 「へえ」由香が、ちょっと見なおしたという表情でとも子をじろじろ見た。「そんなことを、あなたよく憶えてたわね」 「そりゃ憶えてるわよ」とも子が少し憤然とした。「だってわたし、殺されかけたんだもの」 「えっ」淑が顔をあげた。「そんな事件があったの。ちっとも知らなかったわ」 「わたしとおノブだけの秘密よ。社会学概論の試験が終ってから、わたしプール・サイドへ行ったの。そしたら、答案を白紙のままで出したおノブがぼんやりしてたの。気の毒になって傍へ寄っていって話しかけようとしたら、おノブがだしぬけにわたしをプールへ突き落したの。わたし泳げないでしょ。もう少しで溺《おぼ》れるところだったのよ。前期の中間試験だったからよかったけど。あれがもし冬ならプールには水が入っていないから、わたしプールの底で頭を打って死んでたところよ」 「まあひどい」由香が胸に手をあてた。「それでどうしたの」 「おノブがわたしを助けあげてくれたわ」とも子は話し続けた。「わたしを突き落してすぐ正気に戻ったのね。急に話しかけられて驚いたからとかなんとか言いわけして、あやまったわ。プールのあたりには誰もいなかったから、わたし他の人には自分でうっかりしてプールへ落っこちたように言っといたけど」 「いやあねえ」由香が腰を浮かした。「わたし、殺されたくないわ。一時的な精神異常でもって飲みものか食べものに毒でも入れられたら大変よ。早く帰りましょう」 「帰ってどうするのよ」淑が声を大きくした。「わたしたち、おノブの親友でしょ。そうじゃなかった。ここでわたしたちが帰ってしまったら、おノブはわたしたちを騙《だま》せなかったと思って、自分の浮気がご主人に知られることをおそれるあまり、きっとノイローゼになっちまうわ。それより最後まで騙されたふりをして、おノブを安心させてやりましょうよ。わたしたちには学校時代からいろいろな、わたしたちだけの秘密があったわね。これからもずっと、仲間うちでの秘密はみんなで守るようにしましょ。わたしやとも子だって、結婚してから浮気をすることになるかもしれないんだし」  由香が聞き咎《とが》め、突っかかるようにいった。「あら。わたしは結婚してるけど、浮気なんかしていないわよ」  淑は、にやりと笑って由香に向きなおった。「由香。あなた、わたしが気づかないとでも思ってたの」 「おれが気づかないとでも思ってたのか」台所では泥棒が、ぼそぼそした声で暢子を脅《おど》し続けていた。「おれを台所に追いやっておいて、お前はあの三人に、おれの正体をばらすつもりだったんだ」  暢子はつきまとう泥棒にうるさそうな眼をちらと向け、あわただしくオードブルや茶菓の用意をしながらいった。「あんたの正体って何よ。泥棒ってこと。あんたは泥棒じゃないじゃないの。何も盗んでいないし、何も盗まないってわたしに約束したんじゃなかったの。ああちょっと、そのお湯のかかってるガスの火をとめて頂戴」 「あ。そうか。うん。うん」ガス焜炉《こんろ》の火をとめた泥棒は、すぐまた暢子の傍に引き返してきて凄《すご》みはじめた。「おい。どういうつもりなんだ。その、偉そうな態度は。あの女どもの前でも、つんつんしやがって」急に懇願の口調になった。「なんだってあんなに投げやりな態度をとるんだよう。おれのことがあの女たちにばれたら、あんただって無疵《むきず》ではすまないだろうが」包丁を出し、声を低くした。「もし勘づかれた場合はしかたがない。これであんたをぶすりとやらなきゃならないんだからな」  暢子はサラミ・ソーセージを切りながら、泥棒をじろりと横眼で見た。「何よ。包丁ならわたしだって持ってるのよ」眼がまっ赤に充血していた。  暢子の眼つきの凄さに、泥棒はふるえあがった。「おい。落ちつけよ。やめろ。それは気ちがいの眼だ。あんたは今、まともな判断力を失ってるみたいに見えるぞ。どうしたっていうんだ」 「うるさいわね。今のわたしにはあなたのことなんかどうだっていいの。おつまみの用意をすること以外に何も考えたくないんだから。今のうちに裏口からさっさと逃げ出したらどうなの」 「そうだな」泥棒はヴェランダのガラス越しに庭をちょっとうかがい、すぐにかぶりを振った。「駄目だだめだ。うまいことをいって、おれが逃げるなり警察へ電話するんだろう」  その時、応接室で電話が鳴った。  泥棒はとびあがった。「わ。電話だ」暢子にすり寄った。「出ろ。お前出ろ。早く出てこい」 「あんたが出りゃいいでしょ」暢子は溜息とともに言った。「いちいち騒がないでよ。わたしはおつまみの用意でいそがしいんだから。あんたが出て、適当に胡麻化せばいいじゃないの」 「おれが電話に出てる間に、お前、逃げ出して交番へ行くんだろ」 「早く電話に出ないと、応接室にいる誰かが受話器をとっちゃうわよ。主人からかもしれないわ。そしたらあんたの正体がばれるわよ」 「し、しかし、しかし」泥棒はうろたえて、おろおろと台所を歩きまわった。  暢子は耳を傾けた。「あら。誰かが電話に出たらしいわ」  泥棒は応接室の方へ、廊下をすっとんだ。 「はいはい。ご主人ですね。はいあの。ご主人でしたらあの、一応はおられます。今、かわりますから」電話に出たとも子が、首を傾げながら、あたふたと応接室へとびこんできた泥棒に受話器をさし出した。「ええと、あの、ご主人。ずいぶんおかしな男の人からですわ。とても乱暴なことば遣いで。間違い電話じゃないかしら」 「そうですか。きっとそうでしょう。そんな礼儀知らずな男とは、わたしはつきあいがありませんからね。ははは。はは」泥棒は愛想笑いをしながら、とも子から受話器を受けとった。「もしもし。かわりました。わたしが間違いなくこの家の主人であります」 「礼儀知らずな男とは誰のことだ」受話器の中で男の声が吠えた。 「や。聞こえたか」 「聞こえたかはないだろう。あんなでかい声で言っておきながら」急に男の声が低くなり、それと同時に黝《くろ》い色を帯びた。「ところで、今の女は誰か。奥さんじゃなかったようだが」  その横柄な口調に泥棒は少しむっとして言い返した。「おいおい。あんた、礼儀知らずといわれたって怒れないぜ。まず自分が誰かを言えよ。あんたの名前は」 「馬鹿。名が名乗れるか」男がわめいた。 「ああ、そうかい。名が名乗れないようなやつは、おれの知り合いにはいないよ」泥棒はそういって、とも子にうなずきかけた。「やっぱり間違い電話のようです。はははは」 「間違いじゃないぞ」男の声がわめき散らした。「子供がどうなってもいいのか。まさかもう、警察に電話しやがったんじゃないだろうな」 「なな何。何だと。警察がどうしたと」泥棒は一瞬身をのけぞらせ、とり乱してそう叫んでから、女たちの手前をつくろい、へらへらと笑った。「はははは。いやいや。ここは警察じゃない。電話をかけなおしたらどうだ」 「おれは警察に電話してるんじゃない」 「じゃ、何処《どこ》へ電話してるんだ。とにかくここは警察じゃない」 「そんなことはわかっている」 「わかっているなら早くかけなおしたらどうだ」 「おれは、あんたの子供を預っている男だ」 「ああ、そうかい」泥棒は女たちにうなずいた。「託児所の男でした」  男の声が悲鳴を混えて叫んだ。「馬鹿。ここは託児所じゃない」 「じゃ、どこだ」 「ここはその。馬鹿。そんなことが言えるか」 「それを言わなきゃ、あんたがどういう人かわからない。したがっておれも話のしようがない。そんなことぐらいわからんか。このうすら馬鹿め。抜け作め。他人の家へ電話しておきながら、名は名乗ることができない、どこの者かも言えないとは、何たることをおっしゃりまんこのちぢれっ毛」 「まあ、お下品」女たちがけらけらと笑いこけた。  受話器の中で男が肝《きも》をつぶしたような声をあげた。「な、何だなんだ。今の笑い声は」 「なあに。今ちょっと、パーティをやっていてね」 「パーティだ」男はあきれたようにしばらく黙りこみ、やがてやぶれかぶれの大声をはりあげた。「お前ら気ちがいだ。死ね死ね死んでしまえ」  がちゃん、と、電話がきれた。  暢子がオードブルを盆にのせて部屋に入ってきた。 「さあ。おつまみがきました。もっと飲んでください。どんどん飲んでください」ほっとした顔の泥棒が、いささか狂躁《きょうそう》的な陽気さで女たちのグラスに洋酒をついでまわった。 「もう、だいぶいただきましたのよ」数杯のブランデーで顔を赤くした由香が、苦しげに胸を押さえ、しなを作って見せた。 「何よ。それくらいで」と、ぶっきらぼうに暢子がいった。「わたしも飲むわ。あんた、ついでよ」 「はいはい」泥棒は暢子のウイスキー・グラスにジョニー赤を満たした。 「さっきの電話、誰からだったの」ウイスキーをぐいとひと飲みにして噎《む》せもせず、暢子が泥棒に訊ねた。 「ああ。託児所の男が、間違えてかけてきてね」 「坊ちゃん、託児所に預けてらっしゃるの」と、とも子が暢子に訊ねた。  暢子がまた歌いだした。「迷子の迷子の子猫ちゃん」 「およしなさいおよしなさい」淑がとも子の腰を小突いてささやいた。「おノブはさっきから、坊やの話になると必ず変になっちゃうのよ」 「あっ。ステレオがある」と、泥棒が叫んだ。「レコードをかけましょうか」 「ご自分のお家なのに、ステレオがあることを今まで忘れてらしたの」意地悪く、由香がそういった。  淑が由香を睨んだ。由香は知らん顔をした。 「ながいこと、かけなかったものでね」泥棒は気にせず、ジャケットの背を見て踊れそうなロックのレコードを抜き出した。「踊りましょう踊りましょう。ぱあっと陽気にやりましょう。ぱあっと陽気に」  馬鹿でかいサウンドが部屋を満たすと、泥棒は、すでに酔っぱらってふらふらしている由香を無理やり立たせた。 「この曲、踊りにくいわねえ」ぶつぶつ言いながら、由香も踊りはじめた。 「大変。わたし酔ってきたわ」とも子が額を押さえた。「のどがかわいたから、水割りをがぶがぶ飲んだのがいけなかったのね」 「わたしも、眼がまわってきた」淑が、かぶりを振った。「チンザノでも、たくさん、飲まされると酔うのね」 「何さ。なさけない」暢子はぐびぐびとウイスキーをストレートでのどへ流しこみ続けた。胃が焼けるように熱かった。全身が焼けただれてしまえばいい、と、彼女は思った。  部屋が暢子を中心にぐるぐるまわっていた。暢子の主人らしい男が、暢子の友人らしい女と踊っていた。踊りながら暢子の周囲をぐるぐるまわっていた。わたしの主人の職業は何だったのかしら、と、暢子は思った。寿司《すし》屋さんかしら。外科医だったかしら。労組の委員長をしていたのかしら。全国理容師教会会報の編集をしていたのかしら。刑事だったかもね。それとも関東レバニラ炒《いた》め愛好者連盟東京本部長だったかもしれないわ。遠くでけたたましい物音がしていた。その物音が次第に近づいてきた。淑が暢子に、何故かけんめいな表情で何ごとかを告げていた。そして何かを指さしていた。その指さきがさし示す方向に電話があった。けたたましい物音は電話のベルだった。立ちあがろうとして立ちあがれず、暢子はソファの上を電話の方へといざり寄り、受話器をとった。女の声が遠くでわめいていた。 「はいはい。あの、こちらは」暢子は自分の姓を忘れてしまっていた。やっと思い出したのは旧姓だった。「はいはい。こちらは思い出せないのでございますが」 「ちょいと。音楽をとめてあげたらどう」とも子がろれつのまわらぬ舌で叫んだ。「おノブが電話よ」 「かまうもんか」泥棒は由香とべったり抱きあい、チーク・ダンスをしていた。  由香は鬱血《うっけつ》して赤紫色の顔になり、鞴《ふいご》のような荒い鼻息をつき、ぐったりと泥棒にもたれかかっている。 「斑猫さん。斑猫さんですね」女が金切り声でそう叫んでいた。  暢子は受話器を耳にあてたまま、大きくうなずいた。「ああ。ああ。そうでしたわねえ」 「聞こえますか。聞こえますか。こちら浜田外科病院ですが」  そんな病院、知らないわ、と、暢子は思った。きっと夫の勤め先か取引先であろう、そう思った。「毎度ありがとうございます。あの、主人に替わりましょうか」 「えっ。ご主人がそこにおられるのですか」 「はい。チーク・ダンスをしております」 「もしもし」 「はいはい」 「あの、おたくのご主人という人がですね、お宅の近くの公園の前で、車にはねられて、こちらへ運びこまれて、今、あの、手あてをしておりますのですがね」 「まあ。お気の毒に。痛かったでしょうねえ」暢子はけたけたと笑った。「どうぞおだいじにね」受話器をもとへ戻しながら、主人じゃないわ、と、暢子は思った。車にはねられていながら、どうしてチーク・ダンスなんかできるものか。 「もう駄目。もう駄目」と、由香がいった。「気分が悪いわ。寝かせて、どこかへ寝かせて頂戴」 「そうですか。そうですか」泥棒が赤く濁った眼を好色そうに細め、舌なめずりをした。「じゃ、寝室のベッドでちょっと休みなさい。つれてってあげますよ。ほら。しっかりつかまって」由香の腰に片手をまわし、泥棒は彼女は応接室からつれ出した。 「あのふたり、どこへ行くのかね」とろんとした眼で見送り、とも子がいった。 「ああ苦しい。心臓が苦しいわ」額に手をあて、淑が呻《うめ》くようにそういって肱掛椅子の凭《もた》れに背を投げかけ、がくりと頭を前へ落した。 「だらしがないのねえ。誰も彼も」蒼白《あおじろ》い顔をした暢子だけが、ひとりでウイスキーを呷《あお》り続けた。  由香をベッドに寝かせた泥棒は、彼女の和服の乱れた裾へ欲望にうるんだ眼をちらと向けてから、彼女の帯に手をのばした。「苦しいでしょう。ね。帯をゆるめましょう。ね。帯をゆるめましょう。ゆるめてあげましょう。しかしながら、はて、この和服の帯というものは、だいたいにおいてどういう具合になっているのか」ちらちらと上眼遣《うわめづか》いに由香の顔をうかがった。  由香は眼を閉じ、口をだらしなく半開きにして、苦しげにうん、うんと唸っている。 「ええと。どこで結んであるのかな。ややこしいな。これは」ぶつぶつとそう呟きながら、泥棒はベッドの上にはいあがり、由香の足の上へ馬乗りになった。 「あ。痛いわ」由香が足を動かした。  彼女の和服の裾の乱れはますますはげしくなり、太腿が露出した。 「おっとっとっとっとっとっと」泥棒は重心を失ったふりをして上半身を倒し、由香のからだに抱きついた。 「うーん」うす眼をあけた由香が、いかにも苦しまぎれといった様子で、呻きながら泥棒のからだを抱き返した。  作者がまた二十八行削除しようとした時、ドア・チャイムが鳴った。だがその音は、欲情の疼《うず》きと血の滾《たぎ》りでずきんずきんと耳鳴りを起している泥棒と由香の耳には入らなかった。 「おノブったら。おノブ」とも子が睡魔と戦いながら、けんめいに力のない声を出した。「誰かいらしたわよ」 「わかってるんだけど」暢子はうるさそうにぼんやりとそういってから、突然決意したように勢いよく立ちあがった。そして二、三歩あるいた。歩くにつれ、彼女のからだが次第に横へ傾きはじめた。  とも子が悲鳴をあげた。「こっちへ倒れてこないで」  暢子はとも子の上に倒れた。暢子の額と、とも子の前頭部がはげしく鉢あわせをした。 「あいたたたたたた」とも子は叫んだ。「倒れてこないでっていったのに」 「あなたが避ければいいじゃないの」 「からだがいうことをきかないんだもの」  淑は鼾《いびき》をかいていた。  暢子はとも子の顔を鷲《わし》づかみにして立ちあがり、ふらふらと歩きはじめ、しばしばドアや壁によりかかりながら玄関ホールに出た。  ドアを開けると、ポーチに立っていたのは地味な柄と仕立ての背広をきちんと着こなした中年の男だった。眼つきが鋭く、にこりとも笑わないので、私服刑事のように見えた。 「斑猫さんの奥さんですか」ややせきこんだ口調で、男は暢子にいった。暢子はその声に聞き憶えがあった。「いつもお電話でばかり失礼しております。わたしは斑猫君の課の課長で、小池と申します」ていねいに一礼した。「早速ですが会社のことで、非常に重大な、且《か》つ急を要する問題が起ったものですから、こうして、休日にもかかわらずお邪魔を」小池課長はのびあがるようにして暢子の肩越しに家の中を、いらいらとのぞきこんだ。「ええと。あの、斑猫君いますか」  どう答えようか、と、暢子は考えた。まさか、自分の友人の女性と一緒に、もう十分以上も前から寝室に籠《こも》りっきりであるなどとはいえない。 「ちょっと、出かけておりますが」暢子は心配顔の小池課長にいった。「すぐ帰ってくると思います。どうぞおあがりください」 「そうですか。そうですか」あまりの不安に心ここにあらずといった様子で、小池課長はせかせかと何度もうなずいた。「では、待たせていただきます」  応接室へ通された小池課長は、室内の乱雑さや、とも子と淑が酔っぱらって眠りこけているのも眼に入らぬ様子で、肱掛椅子の上におろした尻を落ちつかなげにもぞもぞと動かし続け、暢子が大きなグラスになみなみと注いでさし出したストレートのウイスキーを夢中でぐいと飲み、はげしく噎《む》せ返った。「げほげほげほげほ。ここ、これは酒」 「あら。お水の方がよろしゅうございましたかしら」暢子はけらけらと笑った。 「とても、じっと黙って斑猫君の帰りを待ってはいられない」小池課長は泣き出しそうに顔を歪《ゆが》め、からだをのり出して喋りはじめた。「それにこれは、おそらく奥さんにもご協力いただかねばならない問題だと思うし、いずれはあなたもお知りになることです。喋ってしまいます。じつは斑猫君は、会社の金を一千万円ばかり使いこんでいたのです」  当然だわ、と、暢子は思った。そうでなくてどうしてこんないい家が建てられるだろう。あとで夫にいや味を言ってやらなくちゃ。あなたは自分の甲斐性をことごとにひけらかしていたけど、実力のある甲斐性じゃなかったわけね。そうだわ。そう言ってやるわ。ええ。言ってやりますとも。でも、今わたしの眼の前にいるこのひとは、どうして夫の問題を、まるでわたしの問題ででもあるかのような言いかたで喋るのだろう。わたしにはわたしの問題が別にあるかもしれないってことが想像できないのね。貧すりゃ鈍すだわ。もちろんわたしには、問題なんて何もないんだけど。 「あ。いやいや。ご心配なく。まだ警察へ届けたというわけではありませんから」平然としている暢子を見て、茫然《ぼうぜん》自失の状態に陥ったと思い違えたらしい小池課長は、気絶でもされては面倒とばかり、あわててそうつけ加えた。「今のところ、このことを知っているのはわたしだけなのです」しばらく喋りかたを考えてから、彼は順を追って話しはじめた。「じつは昨夜わたくし、ひとりで残業をしていました。いや。最近は残業をしてくれるという課員がなかなかおりませんので、忙しい時期には課長のわたし自らが残業をしなくちゃ追いつかんのですよ。まったく近ごろの若い社員は、などということは、まあ、どうでもいいのですが、とにかくそういうわけで帳簿の整理をしているうち、ふと、数字が合わないことに気がつき、そいつをもっと詳《くわ》しく調べようとしましたら、すでに深夜に近くなっていたものですから、早く帰らないと、ウィークエンドだというのに遅く帰ったというのでまた家内と子供たちにいたぶられますから、わたくし、関係書類と帳簿数冊をかかえて家に戻りましたのです。昨夜は湿っておりました。はあ。何もかも湿っておりまして、夜食のあと籠《こも》った書斎も湿っておりました。調査を始めまして、徹夜をしまして、何もかもがわかったのはつい先ほど、はあ、昼前でした。朝飯と昼飯は食いませんでしたが、それは咽喉《のど》を通らなかったからです。斑猫君が使いこみをしていたという事実は、わたしにとってショックでした。まことにショックでした」彼は沈黙を続けている暢子の顔色をうかがった。「どうして斑猫君が使いこみをしていたと断言できるのか、他のひとがしたという可能性もあるのではないかとなぜお訊ねにならないのですか。うちの主人に限ってそんなことをする筈がないと、どうして大声で弁護なさらないのですか」 「いいえ」暢子は平然としてかぶりを振った。「あなたがそうおっしゃるのですから、そうに違いありませんわ。そうじゃないといって抗議するためのなんの証拠も、わたしは持っていないのですからね」 「はあ。そうですか」小池課長はちょっと気抜けしたように、しばらくぽかんと暢子の顔を眺めていたが、やがて椅子の上で数十センチとびあがった。「あっ。それだけではないのです。その上斑猫君は、その使いこみが課長であるわたしの諒解《りょうかい》のもとにおいてなされたかのような伝票上の操作をしていたのです。つまり斑猫君はわたしの信用を利用して、彼にまかせてあった決裁書類にわたしの印鑑を用い、彼ひとりではとてもできなかった犯行であるとひとに思わせるような小細工を弄《ろう》して犯行を重ねていたのです。な、なな、なんたる老獪悪辣《ろうかいあくらつ》、非情狡猾《こうかつ》、陰険卑劣、厚顔悪質、奇ッ怪陋劣《ろうれつ》なことをするやつだ」がん、とテーブルを叩いてから小池課長はまっ黒に汚れたハンカチで額の汗を拭いた。「これは、奥さんを前にしてとんだ失礼を」 「それくらいのことは、当然するでしょうね」ますます蒼白く冴《さ》えた顔で、暢子はうなずきながらウイスキーをごく、ごくと飲んだ。「頭がいいんですもの。夫は」  がぶがぶがぶ、と、今度は噎《む》せもせずにウイスキーを飲み乾してから、小池課長は立ちあがり、室内を歩きまわった。「もし金額の不足が月曜日の会計監査で判明したら、わたしが責任をとらなきゃならない。それまでに、なんとかして一千万円を都合し、穴埋めしておかなければ。ああ。ああ。ああ。しかしわたしにはそんな金はない。銀行と交渉して用立ててもらうにしても、今はもう土曜日の午後だ。月曜日の朝から銀行へ行ったのでは間に合わん。もし斑猫君が今日明日中にその金を返してくれるか、もし使ってしまっていた場合でも、なんとか工面してくれない限り」彼は髪を掻《か》きむしって叫んだ。「わたしはおしまいだ。おしまいだ。おしまいだ」 「もう、おしまいなの」と、由香がややしらけた顔で泥棒に訊ねた。「おノブとわたし、どっちの方がよかったあ」 「そりゃあもう、あんたの方がよかった。ずっとよかった」泥棒はくすくす笑いながら由香の白い喉《のど》をこちょこちょとくすぐった。「毛がよかった」  由香は優越感に満ちた表情で勝利の吐息《といき》を洩《も》らし、満足げに喉をごろごろと鳴らした。「そう。おノブは駄目なのね」 「そりゃもう、あんな、おノブなんて女は」つりこまれてそういってから、泥棒はあわてて言いなおした。「いやその、おれの女房なんてものは、あんたに比べりゃぜんぜん」  由香が、にっと笑って見せた。「胡麻化さなくてもいいの。あなたがおノブの旦那じゃないってことぐらい、わたし、とっくに知ってるんだから」  顔色変えて泥棒は由香のからだから身をひき離した。「何。そりゃどういう意味だ」  その時、ドア・チャイムが鳴った。その透明感のある音が、今度は泥棒にも聞こえた。 「わっ。誰だだれだ誰だ」泥棒はとび起き、下半身まる出しのままで寝室の小さな磨《す》りガラスの窓をそっと開くと顔半分だけ出し、玄関のポーチをうかがった。 「くそ」羅刹《らせつ》の顔になった泥棒が由香を振り返って睨みつけた。「計りやがったな」 「ど、どうしたのよ」その表情におびえた由香が、乱れた和服の衿《えり》もとを重ねあわせながらベッドの片側へと泥棒からわが身を遠ざけた。「そんな、こわい顔して。ご主人が帰ってきたの。いいじゃないの。現場を押さえられたわけじゃなし、わたしの主人だとでもいうことにして胡麻化せば」 「しらばっくれるな」泥棒は由香の方へのしかかるように近寄った。「示しあわせて、おれを応接間の電話の近くから遠ざけやがったんだ。こ、こ、この娼婦《しょうふ》め。色仕掛けでおれを寝室へつれこみやがった。その隙《すき》にあの女が警察で電話しやがったんだ」いそいでズボンをはきながら、泥棒は毒づいた。「海千山千の女仕掛人どもめ。寄ってたかっておれを嬲《なぶ》りものにしやがった。この善良な泥棒のおれさまを」  床から短刀を拾いあげた泥棒を見て、はじめて彼の正体を知った由香が動顛《どうてん》し、悲鳴をあげた。「ひいっ。それじゃあなたは、あの、あの。きゃあっ。強盗」 「わっ、黙れ」由香の大声で泥棒はあわてふためき、拾いあげたばかりの短刀を一閃《いっせん》させ由香の喉笛にずぶ、と、突き差した。  由香は一瞬眼を見ひらき、狐《きつね》の顔になり、怪訝《けげん》そうな表情をした。どうやら自分はこの場で死ぬらしいのだが、それは本当だろうかと疑っている顔であった。それから驢馬《ろば》の顔をした。なぜ自分が死ななければならないのか、どうしても合点がゆかぬといった顔であった。コヨーテの顔になった。こんなややこしい立場のままで死ぬことを面白がってでもいるかのような顔であった。最後に白痴の顔をした。どうせ死ぬんだから、あとのことはどうでもいいと思ったらしかった。 「大変だ。またやっちまった。今度掴《つか》まったら死刑だ」  泥棒が短刀を由香の喉から抜こうとした。由香の頭が白痴の表情をしたままでぐらりぐらりと短刀の動きにつれて前後に揺れた。短刀はなかなか抜けなかった。 「この短刀を抜かないと、足がつく」  泥棒は由香の顔を両手で鷲《わし》づかみにしてぐいと押し、同時に短刀を抜いた。短刀が抜け、由香の喉の傷口から鮮血と一緒に勢いよく洩れ出た空気が、か弱い音でぴいと鳴りはじめ、いつまでも尾をひいた。  しつこく鳴り続けるドア・チャイムに、ふらふらしながらふたたび応接室を出て玄関ホールから三和土におり、ドアを開けた暢子は、警官に付き添われて佇《たたず》んでいる茂の姿をそこに発見した。 「茂」眼を見はった。現実感の稀薄だった彼女の意識に、今朝から今までの出来ごとすべてが一連の脈絡を伴って蘇った。「茂」暢子は息子の柔らかいからだを力いっぱい抱きしめた。彼女の頬を涙が伝った。「ああああ。茂。茂。茂。茂」 「海岸沿いの国道で泣いておられましたので、服についている迷子札の住所を見ておつれしました」と、中年の生真面目そうな警官が横から言った。「なお、お子さんは正体不明の変な男に伴われて所在地不明の場所へ行き、そこに於てしばらくは軟禁状態にあったという意味のことを話しておられましたが、これは本官の考えますところ、一種の誘拐ではなかったかと思われます。お宅へは、脅迫電話その他、犯人からの連絡はありませんでしたか」 「おじちゃんが、もう帰れといって、ぼくを車からおろして、どこかへ行っちゃったの」茂も母につられて泣き出しながらそういった。「ぼくはお金にならないんだってさ。ああん」 「よく帰ってきたわね。茂」歓喜に満ち、暢子はそう叫んだ。「ほんとに、よく帰ってきてくれたわ」 「えっ。斑猫君が帰ってきたんですか」  彼女の声を聞きつけ、ドアが開かれたままの応接室からとび出してきた小池課長は、ちょうど寝室からしのび足で出てきて台所から裏庭の方へこっそり遁走《とんそう》しようとしていた泥棒と、廊下のまん中で顔をつきあわせてしまった。 「やっ。畜生畜生。刑事まで来てやがる」やぶれかぶれの大声をはりあげ、逆上した泥棒は小池課長の右肺に短刀を深ぶかと突き立てた。「かかかか勘弁しろ。おれは掴まるわけにはいかんのだ」  裂けるほど口を開き、小池課長は高だかと断末魔をうたいあげた。 「あの声は」警官が靴のままホールに駆けあがった。  廊下では泥棒が、小池課長の胸から短刀を引き抜こうとして四苦八苦していた。 「その男のひとを掴まえてください」警官の背後で暢子が叫んだ。「強盗です」  泥棒は短刀をあきらめ、小池課長のからだをつきはなして廊下を奥へと駆け出した。その勢いに煽《あお》られて小池課長は二度きりきり舞いをし、応接室の中へ俯伏《うつぶ》せに倒れこんだ。突っ立ったままだった短刀が、その切っ先で背広の背中をピラミッド状に盛りあげた。小池課長はカーペットをばりばりと掻きむしり、げほげほと咳《せ》きこみ、血を吐き、放屁《ほうひ》し、絶命した。  泥棒が奧へ駆け出すと同時に警官は、拳銃に手をやりながら大声で警告した。「とまらんと撃つぞ」  泥棒は立ち止まらなかった。  警官は威嚇《いかく》射撃をしようとして引き金を引く途中、銃口をどこへ向けてもこの綺麗な家のどこかに傷がつくと判断した。泥棒が逃げて行く廊下の行きどまりはヴェランダのガラス戸だった。ガラス戸なら割れても取り替えがきく、と、この苦労人の警官は咄嗟《とっさ》に判断した。彼はヴェランダに向かって発砲した。  だが、銃弾は廊下からヴェランダに走り出た泥棒の腹部を背中から鳩尾《みぞおち》へと貫通した。泥棒はそのまま走り続けてヴェランダのガラスをぶち壊し、庭へ駆けおりて芝生を横切り、つつじの植込みに突入し、枝に足をとられてぶっ倒れ、口いっぱいに土を頬張った。彼の右眼はつつじの枝で刺し貫かれた。彼はさっきの由香との行為を懐しんでいるかのように尻を二、三度上下させてから、大きく息を吸いこもうとして口に頬張った土のためにそれができず、眼を見ひらいたままで死んだ。 「しまった。撃ってしまった。ええい。しまった」警官がいそいでヴェランダのガラス戸を開け、庭へ出て泥棒のからだを仰向けにした。「やあ。駄目だ。もう死んでる」 「何なんだ。今の音は」頭を包帯でぐるぐる巻きにし、肩から右腕を吊した章が、銃声に驚いて玄関からとびこんできた。 「あなたあ」暢子は悲鳴のような声を出し、章に抱きついていった。  妻に抱きつかれた章は腕の痛みに耐えきれず、絶叫した。「あいてててててて」 「あっ、ご免なさい。まあ、あなた。いったいこの怪我はどうしたの」 「病院から電話がなかったか」 「そういえば、あったわ。でも、友達三人とパーティをやっていたので、よく聞こえなかったの」 「公園の前で車にはねられたが、さいわい軽い脳震盪《のうしんとう》と腕の骨折ですんだ。それより、今の銃声はなんだ」  廊下から、眼を丸くして茂が駆け戻ってきた。「大変だよ。警官のおじちゃんが泥棒をピストルで撃ち殺しちゃったよ」 「なに。泥棒だと」 「EEEEEEK」 「EEEEEEK」  応接室で、とも子と淑の悲鳴があがった。銃声で眼が醒《さ》め、小池課長の死体を見て仰天したのである。  あたふたと、庭から警官が戻ってきた。「電話はどこですか」  廊下へとび出してきたとも子と淑が、顫《ふる》えながら応接室内の電話を指さした。 「これは泥棒じゃない」応接室をのぞきこんだ章がたまげて大声を出した。「これは小池課長だ。いったい何をしに来たんだ」 「遊びに来られただけ」暢子が間髪を入れずそう言って夫を安心させた。  警官が本署へ電話で応援を求めていた。「そうであります。客がひとり殺害されました。刺殺であります。泥棒は、本官の撃った弾丸の当り所が悪く、死亡いたしました。そうであります」 「由香はどこ」とも子がいった。「さっき応接室から出て行ったのよ」 「酔っぱらって、苦しがっていたわ」と、淑がいった。「寝室じゃないかしら」  章が寝室のドアを開け、ベッドの上の由香を見てわっと叫んだ。「殺されてるぞ」  暢子はいそいで茂の眼を手で覆った。「見ちゃいけません」 「なんだと。死体がもうひとつあるのか」警官が眼を丸くして寝室をのぞきこんだ。「あの殺人狂の強盗め」 「強盗だったのね」とも子と淑が顔を見あわせた。 「この人はお前の友達か。大変なことになったな」章は立ちすくんでいた。「なぜこのひとだけが殺されたんだ」 「由香が、わたしたちの身替りになってくれたのよ」とも子がわっと泣き出した。「由香が犠牲になってくれたので、わたしたち、無傷ですんだのね」 「強姦されている」由香の死体を調べて、警官がそう叫んだ。 「おい。暢子。お前は何もされなかったのか」章が暢子の肩に手をかけ、気遣わしげに訊ねた。 「暢子さんの貞操なら、わたしたちが保証します」淑がきっぱりとそう言った。「わたしたちには、何もしなかったわ。あの泥棒」  暢子は章の骨折した腕に気をつけながら、ゆっくりと、愛する夫の胸に顔を埋めた。いままで張りつめていた精神と、緊張していた肉体の、その両方がこの一瞬にすべて溶け、涙になって流れはじめたかのように、彼女はまた、あらためて泣いた。泣きながら片手で茂を抱き寄せた。親子三人がしっかりと抱きあった。  これでいいのだわ。何もかも、と、暢子は思った。子供は無事に戻ってきた。夫も生きていてくれた。泥棒に強姦されて踏みにじられたわたしの貞操の傷は誰にもわからないですむだろう。相手の泥棒は死んでしまった。だからわたしが泥棒とのセックスを充分楽しんだことも、夫には知られずにすむ。とも子と淑が何か勘づいているかもしれなかったが、この二人なら黙っていてくれるだろう。いちばん口の軽い由香は殺されてしまった。夫がやった会社の金の遣い込みは、すべて殺された小池課長がやったことになってしまう。罪を全部小池課長に背負わせればいい。由香のご主人と、小池課長の家族と、泥棒のデブの奥さんは嘆き悲しむだろうが、そんなこと、わたしには関係がないわ。わたしはわたしの家族が無事でありさえすればいいのよ。そうですとも。わたしにとっては、何もかも、これでもと通りなんだわ。  遠く海岸通りの方から、パトカーのサイレンが次第に近づいてきた。    書名:筒井康隆100円文庫全セット    著者:筒井康隆  初版発行:1999年 7月23日   発行所:株式会社パピレス    住所:東京都豊島区東池袋3-11-9ヨシフジビル6F    電話:(03)3590-9460   制作日:1999年 7月23日   制作所:株式会社パピレス    住所:東京都豊島区東池袋3-11-9ヨシフジビル6F    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